奇跡の生還を果たした男たちが乗り組んでいた軽巡洋艦「名取」

撃沈された軍艦から大海に放り出された乗組員たち「奇跡の生還劇」!

一人の男の統率力が多くの命を救った

第二次大戦中、太平洋上で米潜水艦の魚雷攻撃で撃沈された日本の軍艦から、約200人の乗組員が大海原へ放り出された。彼らは、カッターと呼ばれる小さな木造ボート3隻に分乗し13日間必死で漕ぎ続けて、600km近く離れた自軍陣地の島までたどり着いた。

彼らの手にあったのはわずかな食糧とスコールの水だけという厳しい条件のなかで成し遂げられた奇跡の生還劇。生還者の証言によれば、この偉業は、26歳の若き青年将校が発揮した卓越したリーダーシップによって成し遂げられたという。

 

「多数決で動いていたら、私たちの命はなかった」

昭和19(1944)年8月18日、フィリピンのマニラから、米軍による攻略を間近に控えたパラオ諸島へ、糧食や医薬品、弾薬、航空魚雷などの緊急戦備物件と人員を輸送中の軽巡洋艦「名取」は、フィリピン・サマール島東方300浬(カイリ・約556キロ)の海域で、米潜水艦「ハードヘッド」の魚雷攻撃を受けて撃沈された。

「名取」は、「五千五百トン型」と呼ばれる日本海軍の主力軽巡洋艦の1隻で、14センチ砲5門、61センチ魚雷発射管8門ほか対空火器を備え(改装後)、竣工から22年を経た老朽艦ながら、それまでつねに第一線にあって活躍を続けていた。

軽巡洋艦「名取」。1922年、三菱長崎造船所で完成直後の姿

沈没したとき、艦長・久保田智大佐以下約300名の乗組員が艦と運命をともにしたが、生き残った者のうち205名は、カッター(短艇/漕走、帆走のできる木製ボート。長さ9メートル、幅2.45メートル、重量1.5トン)3隻に分乗して脱出する。

そのなかで最先任者(海軍での序列がいちばん上)であった、当時満26歳の航海長・小林英一大尉は、先任将校として「軍艦名取短艇隊」の編成を宣言し、その卓越したリーダーシップのもと、生存者は秩序を保ったまま櫂を漕ぎ続け、ほぼ東京-神戸間に匹敵する距離を航破して、13日めに自力でフィリピン・ミンダナオ島北東端のスリガオにたどり着いた。途中、「名取」被弾時の負傷や衰弱のため10数名の死亡者を出したが、193名が友軍に救助された。

この「名取短艇隊」の帰還は、運を天に任せての漂流の結果ではなく、生存者全員が力を合わせて運を切り開き、不可能を可能にした点で、世界海難史上に異彩を放っている。

「団体での行動を決めるのには、『決断』、『決裁』、『多数決』と3つの方法がある。『決断』はリーダーが自らの意志で決めることで、『決裁』は、幕僚の複数の案からリーダーが選び出すことです。

戦略は『決断』によるものが望ましく、戦術は『決裁』でもかまわない。旅行の行き先など、どちらでもよい場合なら、『多数決』でも差し支えありません。戦後は、民主主義の名のもとに、多数決が最善の方法であるかのように思われがちですが、必ずしもそうではありません。もし、短艇隊が先任将校の決断ではなく、多数決で動いていたなら、私たちの命はありませんでした」

と、松永市郎(1919-2005)は言う。松永は当時「名取」通信長の海軍大尉で、「名取」沈没後は短艇隊の次席将校として小林大尉を補佐した。ここでは松永の回想をもとに、極限状態の海で生死を分けたリーダーのあり方について振り返ってみたい。