明徳義塾が星稜・松井秀喜氏を5打席連続敬遠……社会問題になるほど注目を集めた、あの1992年夏の甲子園から27年。当時の監督だった星稜・山下智茂名誉監督(74)も見守る中、当時生まれていなかった選手たちが先日27年ぶりに公式戦対決を行ったことが話題となっている。

27年の時を経ても語り継がれるほど、人々の記憶にインパクトを残した当時の松井氏が試合で見せた‟人格的で冷静な振る舞い”には、松井氏がそれまで築き上げてきた「確かな自信と誇り」が滲み出ていたように思う。

そこで今回は、松井氏が1人の高校生でありながらその境地にまで至れた理由を、幼少期から読売ジャイアンツに入団するまでの道のりが綴られた講談社文庫『ひでさん〈松井秀喜ができたわけ〉』より抜粋掲載し紹介しようと思う。

初めての甲子園で経験した挫折を胸に、松井氏はどのような努力の日々を重ね、復活へと至ったのだろうか。山下監督が自身の態度と姿勢で伝え続けた「ある教え」と、影で見守り支え続けた父母の「息子に向かう深い思い」もあわせてお伝えしていく。

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影で続けた「見えない努力」の日々

初めての甲子園で全く打てなかったという苦い思い出を胸に抱いたまま、秋の北信越大会でも不振から抜け出せないでいた。準決勝で対戦した長野の松商学園の上田投手から全く打てず、その時点で2年生の春の甲子園(選抜高等学校野球大会)の道は閉ざされた。

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4番の役割をこれでもかというぐらい感じていた。練習の鬼になった。7時すぎまで学校で練習をしてそれから帰ると、家に着くのは9時頃。夕食のあとさらに練習を重ねた。

まず倉庫でトスマシーンを使ってのバッティング練習。

――20球ずつを5回繰り返そう。
最初にそう決める。

――そのあと良かったらそのままやめて、悪かったらもうちょっと打とう。
納得いくまでやめなかった。

――感覚は絶対にずれてくる。やっていれば絶対に。同じ感覚でやっているつもりでもずれてくる。だから全部確かめて作り上げていく。一つ一つ確認しながらやっていく。

バッティングに関しては、これさえよければ大丈夫ってことはありえない。例えばいい感じになったとしても、これだけ意識すれば大丈夫ということにはならない。今現在の自分の状態を把握して、その中で今の自分に必要なこと、自分の中の対処法を増やしていった。