出版界の戦争責任を問う「粛清の嵐」を講談社が切り抜けた裏事情

大衆は神である(76)

 ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業家・野間家が歩んできた激動の日々と、日本出版界の知られざる歴史を描き出す大河連載「大衆は神である」。

戦時中は、軍部の強烈な圧力のもと、全社をあげて戦争に協力した講談社だったが、戦後、価値観が一変するなかで、社員たちは「戦争中の責任」とどう向き合っていたのだろうか?

第八章 再生──戦争責任(2)

引き受けたが……

木村毅が友人の選挙応援のため、千葉県に行っていた昭和21年春に話を戻したい。木村は、自分の知らないところで自由出版協会(講談社など21社加盟)ができて、会長は博文館の大橋進一氏、理事長は木村毅と新聞に載っているのに驚いた、というところまではすでに述べた。以下は、木村自身の回想(講談社五十年史に掲載)のつづきである。

〈(千葉から東京に)帰ってきて、(自由出版協会の)事務所へ抗議に行こうと思っていると、先方から察しよくやってきて、ぜひ引き受けてやってくれとのことである。僕が喘息で動けないというと、それには自動車一台を提供する、あとでは出版界から銅像を建てて表彰するなどと、ひとつも実行しない話をして、しつこく頼むのである。

なぜ僕を理事長に押したてたのかというと、戦犯の審査委員(註1)が決まって、その中で占領軍に一番信用があって、その言説が重きを置かれているのは、岩淵辰雄君(政治評論家。戦争末期に終戦工作をしたとして吉田茂らとともに逮捕された)であった。僕は岩淵君と学校が早稲田で同級だから、僕には何かと便宜のつてがあると思ったものらしい。

その証拠には、出版界の人でない僕が出版協会の理事長に推されるということからして変である。またもし執筆陣から人が必要なら、僕らよりもっと社会的勢力のある、菊池寛氏とか、吉川英治氏とか、長谷川伸氏とかに頼むべきである。僕を初めから目星をつけているのが、どうも動機が不純である。

そこでことわったが、退いて考えてみると、それらの出版社が大衆や学生読者に必要だということは、僕の考えもGHQと同じだった。救えるなら救わなくてはならない。

もう一つは講談社や、旺文社や、主婦之友社には、戦時中、僕も寄稿し、米塩の資をかせいでいる。それが戦犯になるなら、僕も同罪で、何千分何万分の一かの責任がある。書くのは書いたが、裁かれるときは見殺しにするでは、仁義が立たぬ。よし、これはやっぱり引き受けようと、最後に決心がついた〉

木村は自由出協の理事長に就任したことで批判を浴びた。「多年無産運動の闘士だった木村が大反動組織の手先になるとは何事だ」と新聞や雑誌でたたかれた。菊池寛からは「君、この際はなるべく表立ったところに名の出ないようにする方がよくないか」と注意され、友人の藤森成吉(ふじもり・せいきち。小説家、劇作家。代表作に戯曲『何が彼女をさうさせたか』など。全日本無産者芸術連盟=ナップの初代委員長)は信州の疎開地から「本当とは思えぬ」と言ってきた。

 

社内がバラバラ

先輩友人らの親身な言葉は心にこたえた。しかし、いったん引き受けた以上は翻せない。

もっとも、友人の岩淵をわずらわすことだけは絶対にすまいと思って、その点はつつしんでいたところ、木村が知らぬ間に、ちゃんと自由出協の理事や事務局長の一、二人が木村の名前を勝手にかたって岩淵のところに出入りして、いろいろなことを頼んでいるのをずいぶん後々まで知らずにいた。再び木村の回想。

〈岩淵君も、共産党の出版裁判から大出版社を助けたいという感じは強かったとみえて、実によく面倒をみてくれた。追放の線をどこに引くかということが、問題になったとき、編集長以下は責任が薄いといって、それを境界に線をひいてくれたので、どれだけ多くの人が助かったかしれない。しかし、自由出版協会というものは、一般からは憎まれものになって袋叩きに会った。

当時、マス・コミュニケーションの機関は、新聞も、ラジオも全部左翼にのっとられたが、その中で、東京には三ヵ所だけ赤から独立した機関があった。それは日本経済新聞と東京新聞と自由出版協会である。読売新聞は一時、アカに占領されてしまったが、馬場恒吾(ばば・つねご。政治評論家。戦前、自由主義的論陣をはった)氏が社長、岩淵辰雄君が副社長に就任して、これを奪還した。われわれはお互いに気脈を通じ合って、出版の自由を守るための秘策を練ったので、銀座裏の北海タイムスの社屋の地下室で、よく相談会を開いては、夜の更けるのも知らなかった。(略)

しかし講談社にたいしては、僕も相当にいい分がある。ひどいのは、表面上は僕を押し立てて、出版裁判や左翼攻勢を防禦させておきながら、自分とこの雑誌は、共産党系に少しでもよく思われようと思って門戸開放しているので、彼らは、講談社の雑誌で、公然と講談社の悪口を書いている奇観を呈していた。

講談社の出先機関の自由出版協会のことなんか、コテン、コテンにやっつけられている。自由出版協会さえなければ、講談社の本丸にせまれる。その自由出版協会は、中心の木村さえやっつければ、足腰が立たなくなるというので、僕も一生のうち、あのときほど、ほうぼうから叩かれたことはないが、僕の名前をあげた悪口が、講談社の雑誌に再三載ったのにはおどろいた。

社の中は、上層部は、自由出協と通じ、下の編集は共産党に色目をつかっているといった工合で、まるでバラバラなのだ。社の蝶番(ちょうつがい)がはずれてしまっていた〉

社長が不在という事情もあったのだろうが、当時の講談社は共産党や、その影響下にあるマスコミの猛烈な攻撃を受けて動揺し、「社内はシュンとして、一日口を利く人もいない」(当時の社員の証言)ような沈滞した雰囲気だった。