山岳市場に異界ブーム!?『山怪』現象、ついに漫画まで

『山怪 壱 阿仁マタギの山』の世界
佐藤 徹也 プロフィール
 

農村部で味わった不思議な感覚

見えない、聞こえない…そんな山の怪異のビジュアル化に挑んだのが『山怪 壱 阿仁マタギの山』の作画者で、イラストレーター・墨絵作家の五十嵐晃だ。

彼は長らく新宿に事務所を構え、都心をベースに仕事をこなしていたが、15年ほど前に埼玉県の農村部に移住。現在はそこで米作りに携わるかたわら、作品の制作に取り組んでいる。昼間は田んぼで農作業。夜は静かな部屋で制作。夜な夜な飲み屋街をさまよっていた新宿時代とは、まるで異なる生活リズムに身を置くことになった。

それが彼の感覚になんらかの影響を及ぼしたのかはわからない。しかし、ひとりで田んぼに入って黙々と作業をこなしていると、ときとして都会に暮らしていたときにはなかった、不思議な感覚に包まれることがあるという。

自分しかいないはずなのに、なにかが近くにいるような存在感。風もないのに一部の稲穂だけが見せる不自然な揺らぎ。それはなにか生き物のせいなのかもしれないし、そうではないものなのかもしれない。かといって、とくに恐怖感を感じることはなく、「不思議なこともあるもんだな」程度の気持ちでそのまま作業を続けるのだそうだ。

そんなときに彼が出会った本が『山怪』だった。

そこに登場するのは狐や狸の類から、あるはずのない山中の夜店、森から聞こえる怪音、そして夜道で荷物をつかんでくる何か……と多岐に及ぶが、どれもことさら恐怖をあおり立てるわけではなく、山の深奥ではそんなこともあるのかもしれないなと、妙な説得力を持たせる事象が淡々と語られていく。田んぼで彼が経験することにも似た、そんな奇妙なリアリティに惹かれて、この作品の漫画化に取り組もうと思い立った。

しかし、そこには困難も伴った。たとえば原作には実在の人物が数多く登場するが、その表情や体格描写は想像に頼るしかない。また、原作では具体的に表現されていないさまざまな「音」も、漫画化にあたっては擬音語に変換しなければならない。

なかでも苦労したのは、見えないものの描きかただ。原作には見えないさまざまな「怪異」が登場する。その見えない何かをいかに表現するべきか。

漫画表現としては描かなければ成立しないが、かといって描きすぎてしまえば原作の持つ世界感を壊してしまいかねない。ここがこの作品の難しいところであり、そのいっぽう腕の見せどころでもあった。毎回どんな着地点を見つけられるのか、本人もそれが楽しみなのだという。

©️五十嵐晃/田中康弘/リイド社

制作現場はまさに「五彩あり」

もともと彼は若いころに漫画家を目指し、漫画誌が主催する賞を受賞したこともあるなど、漫画に関しての下地は持っていた。そんな彼が原作を読み終えたときにまっ先に思いたったのが、ここ十数年、自分が積極的に取り入れている墨絵という表現手段だった。

墨絵は昨今の漫画に見られるような、リアルさ優先の表現手段では決してないが、だからこそ原作空間の再現に相応しいのではないか。そしてそこに自分ならではの筆線が加われば、原作プラスアルファの何かが生まれるのはないか。そんな想像が彼の胸を踊らせた。

だが実際に筆を手にすると、そこにも苦労が待っていた。当初のネームこそ鉛筆で描くが、その先の作業はすべて筆による一発勝負ならぬ一筆勝負。漫画の現場にある「下書き」という工程が存在しないため、最後でしくじればすべては描き直しだ。

墨は「五彩あり」といわれるほど、同じように見えても微妙に濃度に差があり、にじみの表現にいたっては同じものを再現するのは不可能。つまりはあとから部分修正がきかないのだ。

そこで彼が選んだ方法は、まずはひとコマごとに一枚ずつ描いたうえでそれをデータ化、そろったところでそのコマを1ページに組んで画質を調整するという方法だったが、ここで原画を描く和紙に泣かされた。

和紙独特の質感は墨絵には必須。しかし機械的にデータ化すると、せっかくの風合いが印刷上はただの汚れに見えてしまうのだという。かといって、完全に消してしまっては和紙を用いた意味がなくなる。そのギリギリのさじ加減を見つけ出して、ようやく完成となる。

といいたいところだが、その後には当然編集者のチェックが入るわけで、場合によってはまた一からやり直すということもしばしばだったそうだ。

原作が多くの人に読まれている理由のひとつには、すべてのことに正解や理由、確実性を求めることをよしとする現代社会の息苦しさもあるのだろう。わからないものはわからない。それでもそれは確かに存在する。そんな異界の表現に墨絵という表現方法を取り入れたことで、その世界観はいかに再構築されたのか。ぜひ目を通してみてほしい。

ちなみに本書の制作過程において、さらにこの世界に惹かれた彼は、現在、自分が暮らす農村の古老からその地に伝わる不思議な話を積極的に尋ねているという。そこには、もしかしたら新たなる『山怪』の原石が眠っているかもしれない。

《プロフィール》佐藤 徹也(さとう・てつや)
山と旅をメインフィールドに闊歩するライター。最近の舞台はサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼道と北欧各国のロングトレイル。著書に『東京発 半日徒歩旅行』(山と溪谷社刊)がある。
 

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