いよいよ「無謀さ」が明らかに…大学入試改革に潜む「重大な脅威」

結局、何が入試制度の「正解」なのか
中屋敷 均 プロフィール

また、つい先日、韓国では当時高校生だった元法務大臣の娘がインターンで行った大学の仕事で、論文の筆頭著者になり、それが評価され推薦入学で大学に合格していた、またそのことが不正ではなかったのか、ということが大きく報道され話題になった。

元々、事前の準備ができるプレゼンやそれに類した特筆次項などは、何を不正と呼ぶかという定義が分からないほど、受験生以外の第三者の関与が可能なものである。

いずれにせよ、「多様な力を、多様な方法で評価し選抜する」という手段を取った場合、基準の曖昧さ、客観性の欠如、第三者の関与といったことが問題点として挙げられ、そのいずれもが不正、不公平性といった問題にすぐに直結してしまう。

近年、何か問題のある人事の指摘があるたびに「適材適所だ」というセリフを何度も聞いたが、あれと同じで、元々根拠がはっきりしない判断なのだから、おかしなことが仮に起こっていても当事者が「適切だった」と言えば、それ以上の論理的な追及は不可能である。それはこれまでかなりの精度で清潔性が保たれていた(少なくとも国立大学では)大学入試という公正なシステムに対する重大な脅威である。

 

「単純な指標」の強み

結論として私が思うのは、受験生を序列化して合格者を決定するような試験は、単純な指標であるから公正さを保てるということである。投げる球のスピードは数字で測れるし、安南ばか詰の解図にかかる早さも時計で計測できるが、野球と安南ばか詰を、世界中の誰もが納得できる形で序列化することはたぶん無理である。

また、主体性とか判断力とかいった複雑な指標を精度よく客観的に序列化する手段もない。序列化自体が問題だ、というのは正論だろうが、入試は序列化しないと合格者と不合格者を決められない。

閣僚や会社の人事のような、いわゆる総合的な判断は、誰かの責任の下で「適材適所」が判断されてきたのだ。それは主観的なものであり、鼎の軽重が問われる問題でもある。そういったやり方に頼らざるを得ない指標を、国立大学入試の主要な要素として導入することは、そもそも適切なのだろうか?

「評価の多様さ」と「公正さ」は、実はトレードオフになっている面がある。つまり中央教育審議会の言う多様な力を多様な方法で公正に評価」とは、本質的に矛盾した表現なのだ。百歩譲って、それが成り立っているとしても、そこでいう「公正」とは主観に基づいた、検証不能な「公正さ」であり、現在の入試システムが持つ本当の公正性からは、大いに変質したものだ。その危険性にもっと注意を払うべきである。

中央教育審議会の「すべての若者が夢や目標を芽吹かせ、未来に花開かせるために」という答申の目指す理念は素晴らしいものである。しかし、それは大学入試のシステムを変えて実現するのではなく、社会における大学という存在の捉え方を変化させることで対応する方が現実的ではないだろうか。たとえば、大学入試がどうのこうのと言うより、大手企業が有名大学に偏った採用をやめれば状況は大きく変わるだろう。

東大に代表される有名大学も、結局、たかが一指標、ペーパーテストの点数が高い人間が集まっただけの集団である。決して総合的な人間としての魅力を兼ね備えたことで特徴づけられる集団ではない(それは東大に人間として総合的に魅力がある人がいないということを意味している訳では、もちろんない)。

実際、日本の社長の出身大学を調べれば、東大が20位、京大は30位くらいで、私立大学が軒並み上位を占めている(2019年帝国データバンク調べ)。それはリーダーシップを持ち、人の上に立てるような人が私立大学卒業者に多くいるということを示しているのだろう。

しかし、ノーベル賞や科学論文の数で言えば、東大・京大はトップクラスだ。つまりそれがある指標により選抜された集団の性質なのである。

主観的判断の危うさ

「僕は料理界の東大へ行く」というCMがあったと思うが、そのような主張の正当性がもっと浸透した社会を作っていくことはできないのだろうか?

大学入試の頂点にある東大に合格した人間は、主体性・多様性・協働性・思考力・判断力・表現力・知識のすべてが優れていると見なされる仕組みは、本当はより恐ろしい階級社会を作り出すことに加担する可能性があるように思う。

東大なんて、テストができる頭でっかちの人間が集まっただけと揶揄されている方が、むしろ健全な社会ではないだろうか。ただ、東大は公正な方法で、きちんとその偏りを作り出し、それを活かすことで社会に貢献したらよい。そこに曖昧な指標を導入して、安易に多様化させることは、結局、集団としての特徴、偏りを損なうことにつながってしまう。

人間には多様な能力があり、それがきちんと評価される社会であって欲しいと思う。しかし、繰り返しになるが、それを大学入試の改変で達成しようというのは良い方向だとは思わない。

野球が上手い人には野球の強豪校があり、将棋が強い人には奨励会がある。それと同じで、東大はペーパーテストに強い人が集まれば良いのだと思う。ただ、そこでの選抜はあくまで公平で公正なものでなければならない

人の主観的な判断に左右される選抜方法は、曖昧で、不正確で、時に不正が入り込む。それは残念ながら世の常である。これまでの国立大学の入試は、私の知る限り、本当に清潔性が保たれて、不正の入り込む余地が極めて少ない仕組みとなっている。

どんな金持ち、あるいは有力者の子供であろうと、受験者にその力がなければ、東大に入ることはできない。もちろん安南ばか詰を作れても駄目である。社会の仕組みとして、それに勝る価値はないのではないかと、私は思う。