生命の保障がないフィールドワーク
小さかった頃に雑誌『少年俱楽部』で大陸を雄飛する、山中峯太郎の小説を夢中になって読みました。その影響もあって、いつか大陸の奥地に行ってみたいというのが、私の夢でした。だから、大学では東洋史学科に入りました。
卒業論文を読んだ、東京大学東洋史の和田清先生からは「あなたは小さいところ細かいところよりも、大きく見て、そのなかから何かを生み出すことが好きですね」と言われました。私が専門にした社会人類学は、社会の構造を明らかにしようとするものです。考えてみると、そうした傾向は私には前からあったようです。
大学で勉強をするなかで、次第にチベットへの関心が高まりました。しかし、海外への渡航自体がとにかく難しい時代、政治的な問題もあり、なかなかチベットに行けません。
そうした頃、独立後のインド政府と日本のあいだで国交が成立し、インド政府が奨学金制度をはじめることになり、その制度を利用するかたちで、1953年にインドの土を踏んだのです。
インドでカルカッタの国立人類学研究所に在籍していると、人類学者たちが調査団を組織して、インド北東部のアッサムに行くことになり、参加しました。ジャングルへの入り方もよくわからないような調査でしたが、おもしろかったのは、研究者とその他の違いです。
調査に、サーバント、コックなども同行し、現地に着くと、食事などの準備をするのは彼らで、人類学者は喋っているだけ。インドの社会を反映していたのですが、属性によって、仕事がすっかり分けられていることに気づきました。
その後、アッサムで山岳民のフィールドワークをひとりでおこないました。当時、地方政府の役人からは、あの地方はわれわれの手の及ばないところだから生命の保障はできませんなどと言われました。
ところが現地に入ってみると、山岳民たちの彼らなりの政治・社会組織がしっかりと機能していることに気づかされました。国家の行政組織とは異なる、生活に密着した、密度の高い下位集団が存在していました。
社会人類学の総本山があるイギリスへ
2年間、インド政府の奨学金で研究をしたのち、スウェーデンの財団から助成を受けてもう1年、あわせて3年間インドに滞在していたら、スウェーデンの財団からもう1年やらないかと言われました。私は3年滞在しているので、これまでインドで見聞きしたことを論文にしたい、と言ったところ、ストックホルムにぜひいらっしゃいと言われました。