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日本の学校は地獄か…神戸「教員いじめ事件」の残酷すぎる支配構造

だからいじめはなくならない

神戸・教員間いじめ事件の衝撃

2019年10月、教員による教員「いじめ」が大きく報道された。舞台は神戸市立東須磨小学校。インフォーマルな権力を掌握した教員グループが、他の教員たちを習慣的に辱め、暴力を振るい、奴隷化し、そのことを楽しんでいた。

被害教員を恥辱にまみれさせる嗜虐あそびの数々は、奴隷プレイともいうべきしかたで、生きることのすべてをきめ細かく「わがもの」につくりかえようとするものであり、全人的な教育・指導(人格支配)の創意に満ちていた。

またそれは、職場を加害教員グループを中心とするお祭り騒ぎで埋め尽くす、政治的な空間占拠の営みでもある。彼らは、ここはオレたちを中心とした祭りで埋め尽くされた世界であるという「現実」をつくりあげ、逆らうことはできないぞと他人を畏怖させ、支配を確かなものにする。

被害教員を(それが人間だからこそ)人間以下の存在に変形させるお祭り騒ぎによって、あそびの「感動をわかちあい」、職場を「感動でいっぱいにする」ことは、自分たちの勢いを中心として「指導力」がすみずみに広がる集団形成をもたらし、逆らうと怖いぞという権力の誇示にもなっている。

「人間まるごと支配」の祭りと、人間関係の利害・権力政治が一体となり、人格モードが変わった教員たちはおぞましい別世界をつくりあげていた。

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もちろんこのような「世界」は、市民社会の基本的なかたちと相容れない。

現代の先進諸国は人間の尊厳に高い価値をおく。人は個人として尊重される。奴隷的あるいは家畜的な扱いを受けない。人格支配は許されない。すべての人は人間として平等である。

もちろん限定された職務の範囲において職務権限の不平等は必要だが、それは、人間「まるごと」が上位者たちに「なかよくしてもらえるよう」に変わる――生まれ変わる――ことを求める身分関係ではない。これが市民社会の基本的なかたちである。

しかし日本の学校は、多かれ少なかれ、子どもだけでなく教員にとっても、「何があたりまえの現実であるか」が市民社会と異なる別社会になっている。

それは学校だけではない。「社畜」「ブラック企業」などと言われ、人格支配がまかりとおる日本の職場についても、同じことが言える。

 

わたしたちが生きる日本は、中間集団全体主義にまみれた社会だ。中間集団全体主義は、人格支配を必須条件とする。市民社会の論理とは相容れない。

各人の人間存在が共同体を強いる集団や組織に全的に(頭のてっぺんから爪先まで)埋め込まれざるをえない強制傾向が、ある制度・政策的環境条件のもとで構造的に社会に繁茂し遍在している場合に、その社会を中間集団全体主義社会という(『いじめの構造――なぜ人が怪物になるのか』253ページ)。

東須磨小学校の閉鎖空間では、私たちの社会のすみずみにいきわたる中間集団全体主義が、極限的、集中的、典型的にあらわれた。

これは、私たちの顔をくっきりと映し出す倍率を高くした鏡である。人間を不幸にする社会のしくみは、「あたりまえ」の生活に埋め込まれている限り、いつまでも続く。「それ」として見えてこないからだ。

今回の極限的な事件は、人が人をいためつけ、人が人を恐れて生きなければならない中間集団全体主義の場のしくみを、くっきりと浮き彫りにする。そして、これを社会問題にすべきではないかと問いかける。