緒方貞子とは何者だったのか? 激動の世界を生き抜いた逞しさと信念

数々の歴史的決断、人道主義の信念…
篠田 英朗 プロフィール

当時のボスニアに展開していた国連PKOのUNPROFORは、激しい内戦の現実に直面し、無力であった。欧州で発生した凄惨な戦争に狼狽した欧州諸国の世論対策で、英仏の主導で作り出されたPKOでしかなかった。アメリカのクリントン政権も及び腰であった。

弱体化していたとはいえ、庇護を求めるセルビア系勢力とその後ろ盾である残存していたユーゴスラビア連邦のミロシェビッチ大統領に配慮したロシアが、反欧米的なトーンを強め始めた時代である。

そのような状況で、ムスリム人が数多く居住していた首都サラエボが、セルビア人勢力軍によって包囲されるという事態が、1992年4月に発生した。

セルビア人勢力は、スナイパーによる狙撃などを繰り返しながらも、約50万人の一般市民が居住し、UNPROFORが駐留するサラエボへの全面攻撃は思いとどまった。しかし代わりに、盆地に位置するサラエボへの交通路を全て遮断し、いわば兵糧攻めを開始した。

サラエボ市民を生き続けさせるための唯一の方法は、サラエボ空港を通じた空輸による支援の継続であった。1948年ベルリン封鎖時の規模を上回る「史上最大」の空輸作戦が、欧米諸国主導の輸送力によって開始された。サラエボ空港の滑走路の防御は、UNPROFOR最大の軍事作戦となった。激しい攻防戦が行われ、幾多の人命が犠牲になりながら、戦争が終結した後の96年2月まで、空輸は維持され続けた。

緒方氏のUNHCRは、このサラエボ包囲時のサラエボ市民向けの援助活動において、やはり圧倒的な存在感を見せつけた。

 

本来の難民保護の任務とはかけ離れた活動であったが、当時の人道援助機関で、UNHCR以外には、この巨大な作戦を遂行する能力を持つ機関はなかった。このときもやはりUNHCRは欧米諸国の軍隊と協力しながら、UNPROFORを事実上の防御組織としつつ、サラエボを守り切る活動を遂行しきった。

ファックスの普及が、戦禍にさらされた一般市民の声を届ける革命を起こした、などと言われていた時代である。欧州諸国の人々を大いに憂慮させていたサラエボ包囲において、劇的な貢献を果たしたUNHCRの権威は、圧倒的なものとなった。

ただし、独自の行動に走るUNHCRを批判するブトロス=ガリ事務総長と対立せざるをえなくなったように、緒方氏の立ち位置が、相当に「政治的」な視点で見られていたことは、事実である。

後に、ブトロス=ガリ事務総長のほうが、アメリカの拒否権によって2期目に入ることができなくなり、1996年末に国連を去った。緒方氏の名声のほうは続いた。しかしいずれにせよ、それは冷戦終焉直後の1990年代の特有の環境の中で起こったことであった。

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