彼らから、一緒に東京大学へ進学して、数学を勉強しようと誘われたのです。そこで、地元に近い京都大学ではなく、東大への進学を決めました。東大理科1類に進学し、上京して1人暮らしを始めることになりました。

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入学してからは授業にはあまり出ないで、その友人たちとテキストを決めて、週に1度集まって輪講していました。その頃は、とにかく数学の知識を吸収することに必死で、かなりの時間を費やしていましたね。
学部時代に「飛び級」を達成
──では、大学時代は数学に没頭していたのですか?
数学の勉強以外にも、その友人の誘いで塾の講師のアルバイトもしていました。中高生に大学の数学を教えるという塾で、カリキュラムやテキストも自分たちでつくるなど、アルバイトでありながら主体的に関わっていました。そのときの経験が、人に教えるという現在の仕事につながっていると思います。
それから、さまざまな大学の学生が集まるインカレの山登りサークルにも参加していました。3泊4日といった日程で、南アルプスなど3,000m級の山にテントを持って登ったりしました。慶應大学の学生も多く、管理工学科の田中健一先生とはこのサークルで出会って以来の友人です。田中先生もそうですが、私も妻とはこのサークルで知り合ったんですよ。
──学部のときに飛び級されたのですね?
ええ、これもその友人たちの誘いで、3年生しか受けられない飛び級試験を受けて、ともに学部3年で中退し、修士課程へ進学しました。友人2人は整数論を選びましたが、私は作用素環論を専門とされている河東泰之先生の研究室に入りました。
河東研究室のセミナーでは、ノートを見ないで話をすることを要求されました。このスタイルは、私の研究室でも踏襲しています。最初は大変でしたが、これは暗記を強要するものでは決してなくて、きちんと問題を理解して、自分の頭で再構築する力を養うための方法論です。数学に限らず、こうした訓練をしておくことは、社会へ出てからも役立つと思います。
修士課程2年のときには、カリフォルニア大学バークレー校の数学研究所MSRIに1年弱ほど留学の経験もしました。

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その後、博士課程を2年で修了して結婚し、東大大学院数理科学研究科で学術振興会の特別研究員(PD)として研究を続けました。この時期に、オレゴンでの長期滞在も経験することができました。それから、学術振興会の特別研究員(SPD)として、北海道大学大学院理学研究院で3年間、のびのびと研究生活を過ごしました。
3年間世界を飛び回っていたのですが、この間に培った人間関係が、いまの自分の研究を支える基盤になっています。
もう1つ、北大時代に得たことといえば、札幌の喫茶店で漫画『ヒカルの碁』を読んで、囲碁に目覚めたこと。現在は、囲碁三段です。
アットホームな慶應大学
──数学者はいまでこそ企業から引っ張りだこですが、一方で、数学研究者の就職は難しいとも聞きますね。