戦後の秘蔵資料に垣間見える講談社の「戦争中の責任」に対する葛藤

大衆は神である(75)
魚住 昭 プロフィール

顧問制を蹴った(?)

加藤だけではない。陸軍との連絡係だった竹中保一、それに元『キング』編集長の橋本求も同類だったのではなかろうか。彼らの「戦争中の編集について」と題する座談会が昭和33年(1958)3月に講談社で行われた。その席で、鈴木庫三との折衝で加藤が味わった苦労を、竹中が持ち上げ気味に語っていると、加藤はこう言いだした。

加藤 顧問制を蹴ったときも鮮やかだったな。
竹中 そうですよ。加藤さんを前においてそんなことをいうとおかしいけれど、実際に(鈴木庫三と折衝を重ねるうちに)だんだん訓練されてね、それで蹴ったんですよ。訓練されて自信ができてきたわけだよ。それはわかります。
笛木 顧問制はできたんでしょう? それを蹴ったとおっしゃるのは?
竹中 それは非常に強力な奴が講談社に乗り込んでくるというわけなんだよ。編集権も何もないその人たちに乗り込まれて、その人たちがうちの出版なり雑誌なりの実権を任せなければならないというようなことが持ち込まれたんですよ。これは容易ならざることですよ。そこで防衛につとめたわけで、積極的に出てはよくないから、社外の顧問ということにしていただきますということに抑えたんですよ。
加藤 (社に乗り込まれたら)社の主体性がなくなるんですよ。
竹中 経営権まではなにしないだろうけれども、こうしろ、ああしろというからね、そんなことをしたら講談社は陸軍の外郭会社になってしまう。
加藤 だから講談社の人たちが頭が悪ければ、(略)向こうの人のいうようになって思うようにやってもらったほうが、あるいは講談社としてはしばらくは御安泰であって、しょっちゅうおどおどしないですんだかもしれないですが、これはいかんというので(社内顧問案を)蹴った。これはやはり講談社に骨があったことですよ。
竹中 顧問制については一番初めに(鈴木が)話をもってきたときに、高木義賢さんは本当に愕然としたんですね。「私が先代から預かっているところにそんなのが来て編集を……」という気持ちがあったんですね。そんなことになったら大変だけれども(略)このままで何とかしてゆこうじゃぁないかというんで、加藤さんが断わりにいった。
橋本 おかげでわれわれがみんな自主的に編集ができて、どこからも、われわれも戦争中は軍部に結果から見て気に入られる記事も書いたわけですがね、だけどもそれはまったくわれわれの自発的な意思でやったわけで、ちっともこれをしろ、嫌だけれどもこれを出せという、そういうことを出すのでも一つもないと言っていいですね。それは、その意味ではわれわれは非常に戦争には協力したけれども国民のいわゆる熱情という意味で協力はしたけれども、強要されて協力したんじゃないですね。雑誌の編集のうえじゃぁね。
竹中 私は戦時中のいちばんの講談社の危機はそれだと思います。誤って当時の幹部が(社内顧問制を)鵜呑みにしてしてしまったら講談社の自主というものがなくなってしまう。これがいわゆる講談社の歴史の上で転換の、一つの曲がり角じゃぁないかと思います。
加藤 そうじゃない。強力にいわれたんですよ。あれで講談社では蹴るだけの気骨がなかったら、講談社は誤ったでしょう。
 

客観的にみれば、加藤は鈴木と妥協したのであり、鈴木の要求を「蹴った」のではない。それを「蹴った」と言うのは事実のすり替えだろう。その証拠に、「顧問制はできたんでしょう? それを蹴ったとおっしゃるのは?」という笛木の素朴な質問にまともに答えられていない。

私が、60年も前の彼らの発言をことさらにとりあげ、読者の目にさらすのは、彼らを批判したいからではない。彼らの認識が、講談社の現在と未来の行き方に大きくかかわっていることを知ってもらいたいからである。たとえば、講談社の社史『物語 講談社の100年 第2巻 発展』の中では、「戦争中の責任」についてこう記されている。

〈軍部や国策に協力した、以上六誌(『陣中倶楽部』『新中華画報』『錬成の友』『海軍』『若櫻』『征旗』を指す)、その発刊や編集などを講談社が引き受けたことについて、のちの世代はどのように評価したらよいのだろうか。けっして称賛することはできないが、かといって、誰がこれを断罪することができるだろうか。もし協力を拒絶していたとしたら、どんな災厄に見舞われていたか、前記横浜事件の例をひくまでもなく、およその見当はつく、異なる対応の仕方を模索してみても、せいぜい微調整でしかなく、歴史の大勢は変わりようがなかっただろう。いま、この社史の果たすべき最低限の責務は、この事実を隠蔽することなく、記録にとどめることだと思われる。〉

仮に、自分たちが抵抗したとしても「歴史の大勢」は変わりようがなかった、という言い分には一理ある。私はそれを必ずしも否定しない。しかし、たとえ「微調整」でも、できることをするのが出版人の義務ではなかったか。義務を果たせなかったのなら、せめて、その事実を率直に読者の前に明らかにする必要があったのではないか。木村毅のように。『100年史』の記述と評価に加え、秘蔵資料をあえて引用するゆえんである。