戦後の秘蔵資料に垣間見える講談社の「戦争中の責任」に対する葛藤

大衆は神である(75)
魚住 昭 プロフィール

「ひどいシロモノ」──知識人としての誠実さ

昭和14年、木村は『冨士』新年号で「明治名将伝」の連載をはじめ、第1回の「涙の乃木将軍」、第2回の「黒木鬼将軍」と書き継いでいった。再び木村の回想。

〈「明治名将伝」といっても、これまた非戦的立場でペンをとった。第一回の乃木大将は奉天戦のあとの、満目戦死者の累々たる中で、太田覚眠という坊さんが、一生懸命祈っていると、乃木大将が悲痛な顔をして巡察にくる。覚眠師がそれを慰め顔に「一殺多生菩薩行」という絶句をよんだ。そうしたら乃木大将がただちに「いや、多殺一生残生を恥ず」という句を次いだという実話によって構想した。

そうしたら新年に、「冨士」の編集の林公平さん、中村博さん、「講談倶楽部」の萱原宏一君と、偶然三人、僕の家に落ちあって、ことに萱原君がほめてくれたので、それからいい気になって続稿した。

あるとき、陸軍大臣が参内したら、天皇は麻雀をしていて、拝謁がゆるされなかった。そこで陸軍大臣は憤慨して佩剣をガチャガチャとならして、天皇をおどして立去ったという話が、広く伝わった。噂が本当かどうかはわからない。しかし私はそれを川上操六大将のところにすぐ取上げて、円転滑脱の川上大将はそういうはしたない、不敬なことはしなかったという風に、諷刺して書いた。(略)

しかし大東亜戦争になって日本がだんだん怪しくなりだしてから、「木村という奴はけしからん。明治の古い軍事ばかり書いて目下進行中の戦争について関心を持たん」といって、シャットアウトをくった。だから昭和十八年ごろから、僕の作品は講談社からボイコットされて載っていないように思う。

終戦間際に短編で特攻隊の話など一、二書いたと思うが、これは僕も軍に妥協したので、穴があれば入りたいほどひどいシロモノだ。一体に僕は講談社の雑誌では「冨士」と「現代」が、自由に書かすので、一ばん書きよく、最もやかましいことをいう「キング」とは肌が合わなかった。だから「キング」には僕は一ばん書いていない〉

 

佐藤卓己の『「キング」の時代――国民大衆雑誌の公共性」によれば、木村が「ひどいシロモノだ」と言う作品の一つは、『富士』昭和20年2月号に掲載された「薫空挺隊」である。敵の飛行場に強行着陸して斬り込む特攻作戦を描いた小説で、こう結ばれている。

「嗚呼、近代科学戦術に、由緒の古い皇国古武道の精華を生かして心棒とした薫空挺隊!驕米の物量主義を撃砕して完勝を博する一つの道はたしかにこゝにある」

なるほど木村が自認するように「ひどいシロモノ」である。「明治名将伝」のような批判精神の欠片もない。しかし、私が強調したいのは彼が戦争末期にいかに駄作を書いたかということではない。その事実を包み隠さず読者の前にさらけだしたことである。

これは簡単なようでなかなかできることではない。戦後、多くの作家たちが戦時中の言動をなかったことにして、責任のがれをしようとするなかで、木村はちがう道を選んだ。そこに私は第一級の知識人としての誠実さを見る。