戦後の秘蔵資料に垣間見える講談社の「戦争中の責任」に対する葛藤

大衆は神である(75)

 ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業家・野間家が歩んできた激動の日々と、日本出版界の知られざる歴史を描き出す大河連載「大衆は神である」。

戦時中は、軍部の強烈な圧力のもと、全社をあげて戦争に協力した講談社だったが、戦後、価値観が一変するなかで、社員たちは「戦争中の責任」とどう向き合っていたのだろうか?

第八章 再生──戦争責任(1)

木村毅と講談社

ちょっと回り道になるが、ここで、木村毅と講談社の因縁について語っておきたい。木村は講談社にとって単なる社史の書き手ではない。戦後の講談社の再出発に当たり、決定的な役割を果たすことになる人物である。そのことを頭におきながら読んでいただければ幸いである。

 

もともと木村は英国留学経験もある文学者で、日本労農党(大正15年[1926]に結成された無産政党)の幹部でもあったから、忠君愛国の講談社とは縁がなかった。が、静岡県の小学校長だった渡辺茂雄が主宰する夏期講習の講師に呼ばれ、他の講師らとともにロシア革命謳歌や社会主義の講演をした。それがもとで渡辺は小学校長をクビになり、講談社に入った。

渡辺は入社早々、「明治大帝」(昭和2年11月号『キング』の付録として刊行され、大きな反響を呼んだ)の原稿をひとりで作って仲間を驚かせた才人でもあった。彼はひそかに木村をヒイキにして何とか彼と講談社を近づけたいと思っていたらしい。

その後、木村は米国の日本人労働者協会から呼ばれ、米国各地で講演をぶちまくった。そのとき、すっかり喉を痛め、ついに喘息(ぜんそく)が持病になった。もう無産政党運動のような激しい活動はできないので、同志に事情を話して日労党を脱退させてもらった。

すると、すぐに講談社の『現代』の編集者が木村に小説の連載を頼みに来た。そのころ、木村が小説を書くことはほとんど知られていなかったから、当時『現代』編集長になっていた渡辺の差し金らしかった。講談社五十年史に記された木村自身の回想。

〈そこで僕は渡辺君の知遇にむくいるために、多年書きたいと思っていた秘材の一つである「旅順攻囲軍」に、いよいよ筆をつけることにした。まじめに書いた。僕は、心ひそかに世上にある戦争小説は勿論、軽蔑していた。日労党の教育部長までしていたものが、ああいう戦争謳歌の小説を書くことは、良心が許さない。これはどうしても非戦の気持を基調とせねばならぬ。

しかし、あのころの非常時のまん中に露骨な非戦小説を書いたら、講談社が、載っけてくれるわけがない。それに僕を推薦してくれた渡辺君の顔を潰すことになる。そこで表面は勇壮なる戦争小説のように見えながら、底に非戦の気持を流す構想にした。僕としては最上の努力をはらったので、第一回が出ると、まず加藤武雄氏(当時の著名な小説家。代表作に「郷愁」)がほめてくれた。それから三上於菟吉(みかみ・おときち)氏(同。「雪之丞変化」)や山中峯太郎(やまなか・みねたろう)氏(同。「敵中横断三百里」「亜細亜の曙」)がほめてくれた〉

木村の文名が高まったのはそれからである。