10月26日に行われた「即位の礼」。各国の要人を堂々と、それでいて優雅に迎える雅子皇后の姿を、誇らしく思った方も多いのではないだろうか。しかし、そこに至るまでには、我々の想像を超える苦悩が隠されていた。12月3日発売の「週刊女性」にて、「皇后雅子さま〜笑顔輝くまで」の漫画連載を始めるにあたり、資料を読み漁り、過去の動画も見まくっている折原みとさんは、その「雅子妃の苦悩」の本質を知らなかったことに愕然としたという。

では、折原さんが愕然としたその雅子さまの苦悩とは何だったのか……。折原さんの語り口で伝えていく連載第2回。延期されていたパレードが行われる本日は、外交官という天職も、一般人である自由も捨てて皇室に入ることを決意するまでの、皇太子との物語をお伝えする。

連載1回「『ハイスペックすぎるプリンセス』漫画家が震えた雅子さまの苦悩」こちら

2019年10月31日、饗宴の宴4日目の天皇陛下と皇后雅子さま 写真提供/宮内庁

「反対派」の言い分

 連載第1回では、雅子さまがいかにハイスペックな女性なのかということを書かせていただいた。では、その人並外れたスーパーレディが、着実に歩んでいたキャリアや自分自身の夢を捨て、皇太子妃となる決心をしたのはなぜだったのだろうか。

天皇皇后両陛下のご成婚に至るまでの物語は、少女漫画も顔負けの、ドラマチックな純愛ストーリーだ。

前回書いたように、おふたりの出会いは1986年(昭和61年)、スペインのエレナ王女の歓迎パーティの席だった。そこで雅子さまに一目ぼれした陛下(当時の浩宮殿下)は、その後何度か雅子さまに会われるうちに想いを深めていく。が、外務省に入省し、外交官への道を歩み始めたばかりの雅子さまには、皇太子妃として皇室に入ることなど、まったくもって考えられないことだった。

 お妃候補としてマスコミに追い回され、ついに耐えかねて、カメラの前でお妃報道に対する「完全否定宣言」。それでも取材攻勢は止むことはなかったが、雅子さまのキッパリとした物言いに、宮内庁の中には、こう言って眉をひそめる職員もいたという。

1988年10月オックスフォード大学ベーリオールカレッジ留学時、ご学友と。ここまで追いかけてきた報道陣に向かってきっぱり否定したのだった 写真/宮内庁提供

 「随分と物事をはっきりとお話しされる気の強そうな女性とお見受けしましたので、皇室に合うのかどうか……」

 実のところ、この時期、宮内庁サイドでは、雅子さまはお妃候補から外れていたようだ。

その理由としてあげられていたのは、雅子さまの祖父、江頭豊氏が、水俣病問題のある「チッソ」という会社の会長だったこと。と言っても、江頭氏がチッソ社長に就任した時には、すでに工場廃液が原因とされる水俣病問題が起こった後であり、ご自身に否があるわけではない。むしろ、江頭氏は患者家族の対応や、会社の立て直しに尽力したという。

当時、宮内庁の中でも意見が分かれていたようだが、反対派が問題にしたのは、お世継ぎのことを考えた上での雅子さまの年齢。キャリアを持つ女性が皇室に入った前例がないこと。そして何よりも、小和田家側から「私どものようなサラリーマン家庭から皇室入りはありえない」という意向が示されていたことだと言われている。