「戦前の#MeToo」戦争の時代に女性たちが求めたもの

勝ち取った女性参政権
井上 寿一 プロフィール

市川房枝が「戦争協力」した理由

満州事変にともなう女性の地位向上運動の停滞は、1937年7月7日の盧溝橋事件の勃発と日中戦争の長期化によって、解消されていく。

日中戦争下の女性は戦争に積極的に協力していた。戦時中の運動がもっとも活発だった。戦時中の共同炊事や生活改善運動は楽しかった。農村では半日、家事労働から解放されて、講演会に参加できるだけでも「婦人解放」だった。

 

国民総動員による総力戦を戦い抜くには女性の動員が不可欠だった。軍需生産や食糧増産に女性を動員するには、生活の共同化・社会化が求められた。

共同炊事場や共同託児所の数が増える。女性は台所(家事労働)から解放される。出征兵士たちの男の職場に女性が進出する。教育の男女平等も課題となる。義務教育の延長、大学令による女子大学の創設、男女共学、高等女学校の中学化などが議論される。

以上のような女性の戦争協力をめぐって、一方の側は戦争の加害者としての女性の責任を告発する。他方はこのような「告発」史観を「後知恵」と批判する。「告発」史観を批判する側も女性の戦争協力を擁護する意図はない。この立場は国家・国境を越える女性の連帯がなかったことを運動の限界として指摘している。

どちらの立場も市川たち運動家の戦争協力を批判する。たしかに市川は国民精神総動員運動の調査委員会委員を歴任して、政府に協力している。この運動の目的が国民の戦争動員だった以上、市川の責任は免れないのかもしれない。

しかしたとえば市川が厚生省次官を委員長とする政府の「服装改善」委員会に参加したことの意図に対しては、別の解釈をするべきだろう。この委員会では「男と共に活動しても見劣りせぬ女の着物を考案」することになった。

その結果、推奨されるようになったのが農村の婦人の作業服だったモンペである。モンペは戦時服としての機能の有用性が再評価された。他方で中流以上の社会階層の女性の華美な服装が批判の的になった。モンペを標準服化することは、服装をめぐる女性の社会階層間の平等化の意図があった。

市川がこの委員会に参加したのも女性の社会階層間の平等化への関心からだったと推測できる。女性は社会階層のちがいを越えて団結しなければならなかった。  

困難な女性の社会階層間での協力

日本の内地の女性は別の問題も抱えていた。満州事変前までの婦選運動は、上流階層と下流階層の組織のあいだで連携があった。満州事変後、日中戦争が拡大するなかで、この連携は対立へと転換する。

この対立は上流階層の愛国婦人会と下流階層の国防婦人会(のちに大日本国防婦人会)の対立として具現化していく。愛国婦人会の創設は1900年と古い。総裁に閑院宮妃を戴く上流階層の女性を中心とする会員は、1932年の時点で約328万人になっていた。満州事変が勃発すると、愛国婦人会は慰問金・慰問袋の収集、出征家族慰問、現地への慰問団の派遣などをおこなっている。

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