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「戦前の#MeToo」戦争の時代に女性たちが求めたもの

勝ち取った女性参政権
「#MeToo」をはじめ、女性の権利が盛んに議論される昨今。それと同様の「戦い」が戦前の日本でも起きていた。市川房枝をはじめとする女性参政権の獲得運動は、満州事変や日中戦争を機会に流転していく。その渦中の姿を、先日「論点別 昭和史」を上梓した井上寿一氏が解説する。

婦人参政権を促した「職業婦人」

昭和が始まる。女性の地位向上のチャンスが訪れる。1928年2月20日にはじめて男子普通選挙による衆議院議員選挙が実施されることになる。つぎは婦人参政権である。

婦選(婦人参政権、女性公民権)運動を展開する女性団体は、総選挙に際してつぎのようなビラを配布している。「貴き一票! 正しく用いて棄てないように/女の人も、手伝いましょう正しい選挙の行われるよう」。

 

婦選運動の女性団体は政党と候補者に婦選を綱領に入れることを要望する一方で、男性の有権者には棄権防止、女性には選挙の監視を呼びかけた。このような変動の背景にあったのは、「職業婦人」の台頭だった

「職業婦人」の社会進出を促したのは貧困だった。1929年からの3年間で、株価約3割、卸売物価も3割以上の下落、農家の所得は半減へと急落している。青森県では1931年の1年間に2420人の農家の子女が身売りされている。昭和恐慌下、家計の足しになるように、やむをえず仕事に就く。このような現実があった。

「職業婦人」の台頭を背景に、男子普選が婦人参政権を促す。このことに期待した女性のひとりが婦人運動家の市川房枝だった(以下の市川に関する記述は、進藤久美子『市川房枝と「大東亜戦争」』に拠る)。1893年生まれの市川は、1921年に渡米、帰国後、普選運動の女性団体を結成する。市川が所属する婦選獲得同盟は、この総選挙に際して、婦選支持の候補であれば、どの政党かを問わず支持する選挙応援戦略を展開する。

壇上で演説する市川房枝(photo by gettyimages)

しかしこの戦略は婦人運動の分裂を招く。婦選支持の候補であればどの政党でもいいのではなく、無産政党でなければならないとの批判が起きたからである。批判を受けた市川は、政党を競わせる方向に戦術の転換を図る。

市川の戦術は功を奏するかにみえた。1931年2月、民政党内閣は衆議院に婦人公民権案を提出する。野党の政友会は批判する。なぜならば政府の提案は市町村レベルでの婦人公民権の付与に止まるものだったからである。政友会は府県会議員レベルへの拡大を要求する。市川の思惑どおり、二大政党は潜在的な有権者の女性の支持をめぐって、政策競争を展開していく。

満州事変によって潰えた夢

民政党内閣の婦人公民権案の提出から半年ほどして満州事変が勃発する。市川の評伝研究によれば、市川は満州事変の不拡大と日中両国の婦人の連携を強調している。

ところが民政党内閣の不拡大路線は破綻する。満州事変の拡大は政府に婦選問題を棚上げさせる。政府も議会も婦選問題どころではなくなったからである。それでも市川は後継の犬養毅政友会内閣に期待する。犬養は婦選賛成論者だった。

第57帝国議会(1929から30年)において政友会総裁犬養の主導の下で、政友会は党議によって全員が女性公民権の賛成者になった。市川たちは1932年1月29日、犬養を総理官邸に訪問して、婦選法案上程を要望する。犬養は「出来るだけご希望に添うよう党と相談」する旨、答えている。

しかし期待は裏切られる。政友会は満州事変が起きる前ならば、婦選に積極的だった。ところが満州事変下において政権に就くと、政友会内閣は婦選関連法案の議会提出すらしなくなったからである。

地方政治レベルではあっても、女性の参政権の実現があと一歩のところまで近づいていながら、チャンスは満州事変の勃発によって潰え去った