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道後温泉が「なぜだか、ほっとする場所」だと言える理由を考えた

『巡礼の家』著者、天童荒太に訊く

私の故郷でもある道後温泉

―『巡礼の家』の舞台は、松山の道後温泉にある架空の宿「さぎのや」です。ご自身の故郷を書こうと思われたきっかけは何でしたか。

今の競争肯定社会、格差肯定社会の中で、多くの人が幸せを見失っているような気がしています。本当の幸せとは何だろうか、それは富とも成績とも関係なく、人々と笑って過ごせる、困ったときには助け合える場を持てることではないか。そうした場所を旧来の言葉で表すと「ふるさと」になると思い至ったんですね。

現実の故郷には同調圧力やしがらみもあって、常に理想的とは言えません。しかし、人々がいつか帰りたい、いつか訪れたいと思える永遠のふるさとを小説で提示してみたいと思いました。そうした“器”のモデルとして、日本最古の癒やしの湯を持ち、お遍路さんを迎える「お接待」の文化が根付き、そして僕自身の故郷である道後温泉が適うと考えたのです。

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―家を飛び出した主人公・雛歩は目を覚ますとさぎのやにいました。不思議なほど皆が親切で、〈さぎのやの普通は、この国の普通ではないし……世界の普通でもない〉。行ってみたくなります。

いまの世界が排他的、偏狭的になっているからこそ、そのアンチテーゼとしての世界観を持つ宿にしたいと思いました。

何かを成し遂げたとかではなく、むしろ何も成し遂げられなかった人、無力感を抱えている人こそを迎え入れる。また、今は多数のために少数が我慢を強いられがちだからこそ、一人のために地域の全員が汗をかくことをいとわない。そういう世界観が普通になっている場所があれば、あらゆる人にとって生きるのがラクになると思うんですね。誰しも、いつ少数派になるかわからないわけですから。

 

―雛歩は言葉を聞き間違えたり、思ったことをすぐに口に出したりと、笑ってしまうところのあるキャラクターです。〈わたしは人殺しだ〉というシリアスな場面から幕を開け、登場人物の多くは複雑な事情を抱えているにもかかわらず、読んでいると明るさ、温かさに包まれます。

ここ十年ほどの小説で芸術としての文学表現を掘り下げてきて、自分なりに限界まで行き着いたという手ごたえを得ることができました。ですからこの小説は、純粋に物語の喜びに満ちた、笑って泣いて楽しんでもらえるものにしたいと。そのために、ユーモアをフル活用しようと最初から決めていました。

だから一方で、言葉におけるユーモアはどう表現しうるだろうかと、悩みましたね。オヤジギャグのように、笑いのために笑いの言葉を使うと浮いてしまうだろうから、雛歩が聞き間違いや言い間違いをするのにはしかるべき理由があって、その理由づけの上に笑いが成立していくようにしようと。

僕の小説の中で、いちばん笑えるものになっているんじゃないかな、と思います。