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ベルリンの壁崩壊から30年、「東西ドイツ統一」は夢のままなのか

11月9日の「熱狂」と期待外れの現状

歴史を変えた「勘違い」

30年前の1989年11月9日の夜、ベルリンの壁が落ちた。これによって、東西ドイツの統一がなされただけでなく、共産圏が崩壊し、ソ連が消滅したのだから、世界を変えた無血革命であった。

しかし、この重要な出来事が、東独のスポークスマンの「勘違い」から始まったということを知っている人は少ない。

 

当時の東ドイツは、ひどく混乱していた。民主化を求めてライプツィヒで始まった月曜デモが急速に拡大したため、独裁者ホーネッカー書記長が武力鎮圧を命じたが、人民軍はすでに従わなかった。

ライプツィヒの抵抗運動は稲妻のように他都市に広がり、11月4日、東ベルリンで10万人デモが起こった。この日、全土で行われていたデモを合わせれば、参加者は100万人を超えていたと言われる。

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政府の幹部たちはこの波に抵抗できないことをようやく察し、ならば改革は自分たちの主導で行おうと、ベルリンのアレクサンダー広場に作られた野外ステージでスピーチを試みたが、集まった市民の怒声で二進も三進も行かなかった。そんな屈辱は経験したことがない彼らは呆然とし、極度に浮き足立っていった。

10万人デモの2日後の11月6日、政府は予てよりの懸案であった「旅行法案」を提出した。国民の「西側への旅行を許せ」という要求に対する「飴」政策のつもりだった。

しかし、この法案には出国のみで、再入国についての規定がなかった。それを知った国民は憤り、政府に対する突き上げがさらに激しくなった。政治家は右往左往し、翌7日はシュトーフ首相が解任され、モドロフが後任となった。

9日の朝、慌てて「旅行法案」に再入国を認める旨が付け足された。

とはいえ、これは、ビザの取得が容易になる程度の改革でしかなかった。なのに、この中途半端な「旅行許可に関する出国規制緩和法」が、その日の午前中、大した審議もなされぬまま、上の空の議員たちによって可決された。

その夜7時、政府のスポークスマン、シャボフスキーが記者会見を行った。

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もっとも、彼は日中の議会に出席していなかったため、詳細を知らなかった。そのため、記者会見での説明はあやふやになり、「この法律はいつから発効か?」という記者の質問に、焦ったシャボフスキーは、「私の持っている情報が正しいなら、即刻だ」と答えた。

 
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