深海で日本海軍の空母発見!奇跡の生還者たちが語ったあの海戦の真実

今日、映画「ミッドウェー」が全米公開
神立 尚紀 プロフィール

このときの米軍機こそ「特攻」のさきがけだった

「加賀」「赤城」「蒼龍」の被弾から約30分後の午前7時57分、「飛龍」では小林道雄大尉率いる九九艦爆18機を、6機の戦闘機とともに敵空母攻撃に発進させる。この艦爆隊の一部は敵空母の攻撃に成功、爆弾6発を命中させ(実際には3発)、大破炎上させたと報告したが、帰艦できたのは出撃機のちょうど半数、零戦3機、艦爆5機に過ぎなかった。

日本の攻撃隊の猛攻を受ける米空母「ヨークタウン」(photo by gettyimages)

10時20分、攻撃隊が艦隊上空に帰ってくる。10時30分、友永丈市大尉が率いる九七艦攻10機、零戦6機が、第二航空戦隊司令官・山口多聞少将以下の見送りを受けて発進。「飛龍」艦攻隊の丸山泰輔(当時一飛曹)は、

「周りで3隻の空母がボーボー燃えている中でね、山口司令官はわざわざ艦橋から降りて、われわれ出撃搭乗員36名、1人1人の手を両手で握って、仇を取ってくれと見送ってくれました」

と回想する。

空母「飛龍」艦攻隊・丸山泰輔一飛曹(のち少尉。右写真撮影/神立尚紀)
 

この攻撃隊は、敵戦闘機や対空砲火の熾烈な反撃を受け、友永大尉機をはじめ、九七艦攻5機が撃墜されたが、2本の魚雷を命中させた。「飛龍」では、なおも残存機を集めて第三次攻撃の準備に入った。丸山は語る。

「帰艦すると、艦橋のあたりは騒然としていました。報告もそこそこに、搭乗員室で戦闘配食の握り飯を食べ始めました。考えてみたら、朝から何も食べていなかったんです。ところが、一息つこうとしたその途端に対空戦闘のラッパが鳴って、来たな、と思ったらダダダーンと爆弾が命中しました。……あとは他の3隻と同じ運命です」

敵機の攻撃を受ける空母「飛龍」(米軍撮影)

「蒼龍」零戦隊の原田要一飛曹は、「蒼龍」が被弾したために唯一無傷でいた「飛龍」に着艦していたが、被弾の直前、整備のできた零戦で、上空哨戒のためただちに発艦するよう命じられた。

「早く上昇して敵機を墜とさなければ、と気は焦るばかり。高度が五百メートルに達した頃、ふと後を振り返ると、『飛龍』にも火柱が上がるのが見えました。その時私は、日本は負けた、と思って目の前が真暗になりました」

原田は、期せずして機動部隊を最後に発艦した搭乗員となった。原田は燃料が切れるまで上空哨戒に任じ、夕闇迫る海面に不時着水、4時間の漂流ののち、探照灯を照らして生存者を探していた駆逐艦「巻雲」に、奇跡的に救助された。

日が暮れて敵機の空襲がやむと、「飛龍」には駆逐艦が横付けして、ホースで弾火薬庫に注水を始めたが、やがて機関が停止、日付が変わった6月6日未明、山口司令官は艦の処分を決定する。生存者は、夜明け前にカッターで駆逐艦に移乗、「飛龍」は自ら艦に残った山口司令官、艦長加来止男大佐を乗せたまま、味方魚雷で処分された。

じっさいには「飛龍」はその後しばらく浮かび続けていて、機動部隊のはるか後方にいた、山本五十六聯合艦隊司令長官の率いる主力部隊から状況偵察に飛来した空母「鳳翔」の九六艦攻がそれを発見、しかも飛行甲板上には生存者の姿もあって聯合艦隊司令部があわてることになる。このとき、機関室からやっとの思いで脱出し、「飛龍」沈没後はカッターで漂流、米軍に救助され捕虜になった萬代久男(当時・機関少尉)が私のインタビューに答えたところによれば、萬代たちが飛行甲板に上がったときには艦橋に人影は見えず、司令官も艦長もすでに自決していたのではないか、という。

ミッドウェー海戦で、日本側は主力空母4隻と重巡洋艦「三隈」が沈没、母艦搭載の全機、285機(防衛庁防衛研修所戦史室編纂の『戦史叢書』の推定)と水上偵察機2機を失った。艦船の乗組員を合わせた戦死者数は3000名を超える。対して、米側の損害は、大破して漂流中の空母「ヨークタウン」が、日本の伊号第百六十八潜水艦の魚雷に止めをさされ、駆逐艦1隻とともに沈没、飛行機喪失150機。ミッドウェー島で日本機の空襲で戦死した者もふくめ、戦死者数は約360名であった。(2019年10月22日、「赤城」発見を報じた米CNNは、この海戦で〈日本人3057人と米国人307人が命を落とした。〉としている)

飛行機の戦いに限って見れば、日本側で戦没した飛行機搭乗員が121名であるのに対し、ミッドウェー海戦で失われた米軍パイロットは、日本側の倍近い約210名にのぼり、そのほとんどが飛行経験2年未満、20歳代前半の若いパイロットだったという。しかし、その若者たちが、日本艦隊に目に物見せようと、死にもの狂いで戦いを挑んできた。零戦に墜とされても墜とされても攻撃の手をゆるめず、ついに日本側の邀撃と対空戦闘の間隙をついて、空母4隻を仕留めたのだ。

敵機の攻撃のみで沈んだのは「蒼龍」1隻で、「加賀」「赤城」「飛龍」はいずれも最終的には味方魚雷で処分されたものだから、「4隻の空母が撃沈された」という表現は正しくない。だが、犠牲をいとわず4隻に命中弾を与え、その戦闘力を奪った米軍パイロットの勇敢さは、対戦した零戦搭乗員たちにも感銘を与えた。

「あのとき、戦闘機の護衛もつけずに来襲してきたアメリカの雷撃機、急降下爆撃機こそ、『特攻』のさきがけだったんじゃないかと思うんですよ」

米雷撃機・ダグラスTBDデバステーター。ミッドウェー海戦で、全滅に近い損害を出しながらも、陽動の役目を果たした(日本海軍の敵機識別写真より)

とは、この海戦で米軍雷撃機5機を撃墜した原田要一飛曹(のち中尉)の述懐である。原田は、このときから59年後の平成13(2001)年12月、ミッドウェー海戦で空母を攻撃中に零戦に撃墜され、奇跡的に生還した米雷撃機のパイロット、ロバート・H・オーム氏とハワイ・真珠湾で「再会」を果たし、互いに往時の健闘を讃え合った。

平成13(2001)年12月7日、ハワイで行われた真珠湾攻撃60年記念式典で、元零戦搭乗員・原田要氏は、ミッドウェー海戦で零戦に撃墜された米雷撃機パイロット、ロバート・H・オーム氏と「再会」を果たした(撮影/神立尚紀)