10月16日、アメリカの調査チームによって公開された、ミッドウェーの深海に眠る空母「加賀」の艦体(写真:AP/アフロ)

深海で日本海軍の空母発見!奇跡の生還者たちが語ったあの海戦の真実

今日、映画「ミッドウェー」が全米公開

ハワイ諸島北西海域の深海で、77年前、日米の機動部隊が激突したミッドウェー海戦で沈没した空母2隻の艦体が、アメリカの調査チームによって発見された。太平洋戦争開戦から約半年、優位に立っていた日本軍は、この海戦で、発見された「加賀」「赤城」を含む虎の子の空母4隻を失い、戦争の形勢は一気に逆転した。

この戦いでは、空戦では圧勝していながら、着艦すべき母艦を失った多くの航空機搭乗員が犠牲となった。奇跡的に生還した搭乗員たちは、あの海で何を見て、何を思ったのか?

 

心のなかでは、見つからないでほしいと

今年(2019)10月――。米IT大手マイクロソフト共同創業者のポール・アレン氏(2018年10月死去)が設立した財団の調査チームが、昭和17(1942)年6月に日米機動部隊が激突、太平洋戦争の大きな転換点となった「ミッドウェー海戦」で沈没した日本海軍の空母「加賀」「赤城」の艦体を相次いで発見したと報じられた。海底に眠る「加賀」の映像には、舷側後方に設けられた特徴的な20センチ砲がはっきりと映し出されている。

深海探査船から送られている「加賀」の画像をチェックする調査チームのメンバー(photo by gettyimages)

「赤城」は、もとは巡洋戦艦、「加賀」は戦艦としてそれぞれ計画されたが、大正11(1922)年に締結されたワシントン軍縮条約で主力艦(戦艦)の保有トン数が制限されたことから、いずれも建造途中で航空母艦に改造された経緯をもつ。

空母「赤城」。ミッドウェー島沖、水深5280メートルで発見された
空母「加賀」。平成11年にも発見が報じられたが、今回、水深5400メートルの海底で、鮮明な画像が撮影された

太平洋戦争開戦時には、この2隻で第一航空戦隊を編成し、真珠湾攻撃を皮切りに、南太平洋のラバウル攻略、オーストラリアのダーウィン空襲と転戦。「赤城」はインド洋にも進出し、セイロン島(現スリランカ)コロンボ、ツリンコマリのイギリス軍事拠点の空襲にも参加している。その間、まさに向かうところ敵なしの戦いを見せたが、開戦からわずか7ヵ月、ミッドウェー海戦(6月5日〜7日)で相次いで沈没した。

「赤城」の艦体発見が報じられたのは今回が初めてのことだが、「加賀」は、平成11(1999)年にも、アメリカの深海調査会社ノースティコスが、ミッドウェー島東方の海底で、ソナー画像から残骸を発見したと発表している。このとき、かつて「加賀」乗組の九七式艦上攻撃機搭乗員だった吉野治男(当時一飛曹)、赤松勇二(当時山口姓、二飛曹)の2名が、調査への協力要請を受け、探査船に同乗した。

空母「加賀」艦攻隊・吉野治男一飛曹(のち少尉)。ミッドウェー海戦では索敵任務につき、平成11年の海底探査にも加わった

「波が高く、船は大きく揺れました。ミッドウェー島沖とはいっても、周囲は全部海ですから、昔ここで戦った感慨とか、思い出に浸るようなことはなかった。心のなかでは、見つからないでほしいという気持ちもありました……」

と、吉野(1920-2011)は、私のインタビューに答えている。それから20年の間に、ミッドウェー海戦に参加した飛行機搭乗員たちのほとんどが鬼籍に入ったが、彼らが生前に残した肉声から、両艦の最期の戦いを振り返ってみたい。

日本海軍は米海軍をナメていた

日露戦争で、東郷平八郎司令長官率いる聯合艦隊がロシア・バルチック艦隊を撃滅した日本海海戦より37年めの「海軍記念日」にあたる昭和17(1942)年5月27日、南雲忠一中将率いる空母「赤城」「加賀」の第一航空戦隊、「飛龍」「蒼龍」の第二航空戦隊を主力とする機動部隊は広島湾を出港した。威風堂々の大艦隊。しかしその内実は、真珠湾攻撃のときとちがって、心もとないものだった。

空母「蒼龍」(上)と「飛龍」。この2隻で、第二航空戦隊を編成していた。「飛龍」は、平成11年、残骸が発見されている

艦の乗組員は、半年におよんだ南方作戦の疲れが癒えず、しかも飛行機隊搭乗員の補充、交替が完了したばかりで、その訓練内容は基礎訓練の域を脱していなかった。戦闘機(零戦)、艦攻(九七艦攻・雷撃、水平爆撃、偵察兼用)、艦爆(九九艦爆・急降下爆撃)も合わせて、開戦直前の練度にはほど遠く、戦力の低下は明らかだった。見た目は変わらなくとも、機動部隊の総合力そのものが大きく目減りしていたのである。

それでいて、連戦連勝であったこれまでの戦果への過信が緊張感を失わせ、機密保持にも作戦にも緩みを生じさせていた。

「真珠湾のときは、出撃直前までわれわれ搭乗員にも計画が知らされなかったのが、ミッドウェーのときは、呉の芸者までが『次はミッドウェー』と噂してる。こんなことで大丈夫なのか、と思いましたが、『いや、これは、敵が出てこない方が困るから、挑発するためにわざとやってるんだよ』と言う士官もいて、釈然としない思いがしましたね」

と語るのは、「赤城」艦爆隊の一員として真珠湾攻撃に参加、ミッドウェー海戦のときには「蒼龍」偵察機分隊長として、新鋭の十三試艦上爆撃機(のちの「彗星」)2機を所管していた本島自柳(当時大尉。旧姓名・大淵珪三。1917-2005)である。いま振り返れば、日本海軍は米海軍をナメていた。

空母「蒼龍」偵察機分隊長・大淵珪三大尉(のち少佐。戦後、本島自柳と改名)。真珠湾攻撃にも「赤城」艦爆隊の一員として参加した(右写真撮影/神立尚紀)

ミッドウェー海戦の詳細や敗因については、拙稿「76年前の今日、ミッドウェーで大敗した海軍指揮官がついた大嘘」(2018.6.5)https://gendai.ismedia.jp/articles/-/55940 でも述べた。日本側が油断している間に、米海軍は日本海軍の暗号書をほとんど解読し、全力をもって反撃態勢を整えていた。「エンタープライズ」「ホーネット」「ヨークタウン」、3隻の空母を中心とする米機動部隊は、日本艦隊を虎視眈々と待ち構えていたのだ。