グレタ・トゥンベリ氏、国会デモ…「若者の社会運動」賞賛するリスク

若者を「代弁者」にしていないか
富永 京子 プロフィール

「若者の社会運動」において、とりわけ従事者の属性に注目が集まることは、批判のみならず賞賛を見ても明らかだ。彼らの活動を賞賛する側も若者たちの属性から逃れられていないということは、実は少なくない。

例えば、先ほど紹介した原田隆之氏の記事に関しても、スロベニアの哲学者スラヴォイ・ジジェク氏の「彼女のメッセージはシンプルだ。科学を真剣に受け止めろということだ」「彼女のような自閉症的な女性が必要なのだ。なぜなら、彼女のメッセージは美しく、疑いようもなく正しいからだ」というコメントが引用されている(元のコメントはBloomberg紙に掲載)。

トゥンベリ氏のメッセージが「正しく」、ある観点からすれば「美しい」ことは認められるかもしれない。しかし「自閉症」や「女性」であることを取り上げて賞賛する必要はどこにもない。私たちはしばしば、社会運動に従事するシンボリックな存在を過度に神格化したり特別扱いしたりしてしまうことがあるが、それの何が問題なのだろうか。

本稿では、若者の社会運動において従事者の属性に注目することの危うさを、とりわけ担い手を「賞賛」する立場から考察することで考えてみたい。

〔PHOTO〕iStock
 

「若者への賞賛」とは何なのか

トゥンベリ氏の事例に限らず、「若者の社会運動」に対して理解を示す、あるいは同様に社会運動をしている年長者が「若者」を賞賛する背景には、若者を自身の主張の「代弁者」としてコントロールしたいという欲求が潜んでいる可能性がある。

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