“大器晩成の歴史家” 保阪正康が語る「昭和史研究と我が人生」

「保阪正康の仕事展」観覧記
近藤 大介 プロフィール

辿りつくのは命の哀しさ

「保阪ファンが年々増えていく現象を、どう分析していますか?」――昨年、『昭和の怪物 七つの謎』がベストセラーになった時、この質問を本人にぶつけてみた。すると、苦笑いしながらこう答えた。

 

「昭和から平成、平成から次代へと時代が変遷する中で、自分が書く昭和が『歴史』になったからではないかな」

確かにそれも一因だろう。昭和を二十数年生きた私には常識でも、平成生まれのいまの若者に新奇に映ることは多々あるからだ。

だが、それだけではないだろう。やはり、若い時分にコツコツと取材を続け、地道に実績を積み上げてきたことで、いま大樹が花開いているのだ。まさに「大器晩成」である。

展示会の年譜を追っていて、改めて知ったことがあった。保阪氏は1968(昭和43)年、朝日ソノラマを辞めてフリーランスになった直後に、金沢の神宮の長女・隆子さんと結婚していた。

普通は逆だろうと思う。結婚を決めたら、フリーランスが就職するものだ。後年、保阪夫妻とは、数ヵ月に一度、池袋で会食する習慣ができたが、ついに隆子夫人に、そのことを聞きそびれてしまった。

ある人は、「隆子さんが、『あなたは絶対に才能がある』と保阪氏を励まして、フリーランスとして世に送り出したのだ」と証言する。

私は、その通りではないかと思う。戦時中の「銃後の支え」ではないが、隆子夫人は、本当に人間としてよくできた方で、保阪夫人であると同時に、秘書役をも務めていた。

「ノンフィクション作家・保阪正康」とは、保阪夫妻の「合体物」ではないかと、いつも思っていた。確かご本人も、2004(平成16)年に菊池寛賞を受賞した際、授賞式の挨拶で、最前列に隆子夫人を立たせて、そのような趣旨のことを述べている。
だが、2013(平成25)年6月20日、隆子夫人は急逝してしまう。

私はその2週間ほど前にも、池袋のフレンチレストランで会食したばかりだった。隆子夫人はいつになく興奮気味に、店員に閉店時間を促されるまで、楽しかった韓国旅行の話などを語ってくれていたのだ。

葬儀の際、保阪氏は「家内が先に逝くなんて、考えたこともなかった……」と途方に暮れていた。

保阪氏は、それから一年以上経って、月刊『文藝春秋』(2014年10月号)に、『慟哭の手記50枚 亡き妻と私』という長文の「追悼文」を発表した。ノンフィクション作家が、自分の亡き妻に対する「慟哭の手記」を書くというのも、おそらく前代未聞だろう。

だが、実に感動的な手記で、世間でも評判になった。真の愛妻家とは、このような人を言うのだ。

「保阪正康の仕事展」のおしまいにも、隆子夫人の葬儀の際に保阪氏が読み上げた文章が展示してあった。

<初めて出会った時、好奇心溢れる知的な眼差しで、私の話を一生懸命聞いてくれた妻、半世紀近くの歳月が流れ季節が幾つ巡っても、あの日の妻の輝く笑顔を、今も眩しく思い出します。どんな時も相手に寄り添い思いやる優しい妻でした……>

その傍らには、北京郊外の万里の長城で撮った「ツーショット写真」が飾ってあった。真冬で二人ともオーバーを着込んでいるというのに、仲睦まじく寄り添っている。

私は夫妻と北京で会ったことも何度かあるが、隆子夫人の中国語は驚くほど上手で、保阪氏の通訳も兼ねていた。私が「北京では奥様の仕事がもう一つ増えますね」と言ったら、はにかんだ様子を見せていた。そんな姿が脳裏を掠めて、静かに「ツーショット写真」に手を合わせた。

ちょうど館内を一巡した夕刻時、「ちょっとお茶でも飲もう」と声が掛かった。前日に東京から札幌へ来て、この日も朝から取材攻勢に遭っていた保阪氏本人だった。

われわれは、文学館の館内のカフェに移動した。閉館間際ということもあってか、広い店内に客はなく、保阪氏は好物のカフェラテを注文する。

「いやあ、故郷というのは、気が休まるものだね。北海道の人たちからは、こちらに戻って来て余生を過ごせと言われるんだ」

札幌でも分刻みの取材を受けていて、「休まる」もあったものではないと思うが、保阪氏にとって、札幌の空気は格別らしい。「そこの通りで、オリンピックのマラソンをやるらしいよ」などと、嬉しそうに解説してくれる。

同じカフェラテを啜りながら、しばし雑談する。このまま休ませてあげたい気もあったが、やはり職業病が頭を擡げてしまった。

「記者としてお聞きしますが、今後、執筆したいテーマは何ですか?」

すると保阪氏は、札幌時代の少年期に立ち返ったかのように、純朴な笑顔を見せ、朗々とした声で語りだした。

「実は3つあるんだ。来月で80歳を迎えても、まだまだステップアップしていきたいからね。

一つ目は、出身地の北海道の家族のことを、二つ目は、東條英機、山本五十六、石橋湛山ら『明治17年生まれの男たち』のこと。そして何より三つ目は、東條英機の評伝を、もう一度書いてみたい。

東條英機の評伝は、40歳の手前で書いた(『東條英機と天皇の時代 上下巻』1979年、1980年、伝統と現代社)。だが、その2倍の80歳を迎えて再度、挑戦したい。当時といまとでは、自分自身が変化したために、おそらく東條に対する向き合い方が違うものになると思うんだ」

私は思わず、「どう違うものになりそうでしょうか?」と聞き返した。すると保阪氏は、しばし中島公園の赤黄色に染まった紅葉群を見やりながら呟いた。

「結局、辿り着くのは、命の哀しさかな……」

そう言われてみれば、「保阪史観」の底流を常に流れる副旋律が、「命の哀しさ」である。

「昭和史研究の怪物」は、80代でどんな「昭和の怪物」を遺すのだろうか?

(※北海道立文学館の特別展「保阪正康の仕事」は、11月7日(木)まで開催中です)