“大器晩成の歴史家” 保阪正康が語る「昭和史研究と我が人生」

「保阪正康の仕事展」観覧記
近藤 大介 プロフィール

人柄に惹かれた「保阪親衛隊」

はて、私が保阪氏と知り合ったのは、いったいいつのことだったろう? 眼前の長大な年譜を、改めて辿ってみた。

 

「2000(平成12)年 61歳」のところで、目が止まった。

<『昭和史 七つの謎』ベストセラーになる。『後藤田正晴』が中国で翻訳出版(新華社)。保阪訪中団(6人)の団長として中国・東北地方を見て回る>

確かこの頃である。同僚で畏友の編集者・横山建城氏が、「素晴らしい作品を講談社文庫から出した」と意気揚々として、銀座で開いた保阪氏との会食に呼んでくれたのだ。『昭和史 七つの謎』(講談社文庫)は確かに傑作で、20万部を超えるベストセラーとなった。

<第1話 日本の〈文化大革命〉は、なぜ起きたか? 第2話 真珠湾奇襲攻撃で、なぜ上陸作戦を行わなかったか? 第3話 戦前・戦時下の日本のスパイ合戦は、どのような内容だったか? 第4話 〈東日本社会主義人民共和国〉は、誕生しえたか? 第5話 なぜ陸軍の軍人だけが、東京裁判で絞首刑になったか? 第6話 占領下で日本にはなぜ反GHQ地下運動はなかったか? 第7話 M資金とは何をさし、それはどのような戦後の闇を継いでいるか?>

それぞれのエピソードが「活きた昭和史」となっている。特に、第3話の吉田茂元首相の自宅を、公安がスパイする話が印象的だった。

初対面の時、保阪氏と中国論で盛り上がったのを記憶している。保阪氏にとって、中国は昭和史研究の延長だった。一方の私にとって、昭和史は中国研究の延長だった。

その直後、いまは無き『月刊現代』という雑誌で編集者になって、中村勝行編集長に保阪担当にしてもらった。保阪氏に同行して、鹿児島の特攻隊記念館や北京などを回った。

編集者として保阪氏を担当したのは、月刊誌でほんの数回きりだったが、二つの「驚き」があった。一つは、保阪氏の飽くなき好奇心である。

北京の街を歩いていて、保阪氏が「あの人に話を聞いてみたい」と言う。指さした先には汚らしい格好の爺さんが座っていた。私は保阪氏と物乞いの間の通訳をしたのだ。その後、私は北京で3年間、出版社の駐在員を務めたが、物乞いの通訳を仰せつかったのは、後にも先にもただ一度だけだ。

もう一つは、編集者への信頼感である。保阪氏の手書き原稿は、いつも締め切り時間を過ぎた深夜に、ファックスがコトコトと音を立ててやってくる。

初めて『月刊現代』で担当した時、私は不遜にも、大御所の保阪氏に意見してしまった。ほとんどが、「ここは改行してはいかがでしょうか?」とか、「ここに『しかし』と接続詞を入れた方が読みやすくなるのではないでしょうか」といった細部に関することだった。だが1ヵ所だけ、「このエピソードは〇〇ページの△△に移してはどうでしょうか?」と注文をつけた。10ページの原稿で、計30ヵ所ほどに上った。

ノンフィクション作家によっては、編集者がこういう進言をすると気分を害する。実際、その少し前に、ある当時の売れっ子作家に同じことをしたら激昂し、西麻布の事務所まで謝罪に駆けつけたものだ。

そのため、私はファックスを送った後、内心ビクビクしていたのだが、保阪氏は編集部に電話をかけてきて言った。

「こんなにきれいに直してくれて、ありがとう。おかげで本当に読みやすくなった」

この時からである。たとえ担当を何本抱えていても、保阪氏のものを最優先しようと私が心に決めたのは。

実際、出版・新聞業界の間で「保阪番」と呼ばれる担当編集者たちは、保阪氏に心酔している人ばかりだった。年に一度くらい各社の担当編集者が集まって「保阪氏を囲む会」を開くと(幹事はいつも平凡社新書の金澤智之編集長)、編集者たちが次々に挨拶する。「正月返上で新著の売り込みをします」「今回も自社(新聞社)の書評に保阪さんの新著の書評をねじ込みました」……。 

彼らは、「保阪親衛隊」なのである。「編集者が心底、尊敬している作家」というのは、実は珍しい。編集者の多くは、サラリーマン的に一定期間、その作家を担当しているだけだからだ。