日本の大手出版社に対する「戦争責任」追及、その知られざる実態

大衆は神である(74)
魚住 昭 プロフィール

粛清措置の拒否

翌2月には出版界粛清委員会による喚問が行われた。再び尾張の回想。

〈出版界粛清委員会は体育館か何かを事務所にして、戦犯と称する社を呼びつけては尋問する。われわれも三日にあげず呼び出された。「君のところは紙がまだどのくらいある」とか「戦争中にどんなようなことをした」「剣道なんかやったことは戦争を煽る大きな原因だ」「君のところの『キング』なんか、あんな雑誌はやめてしまえ」なんてつまらないことを言ってね。実にしゃくにさわってしょうがない。それは社の外部でのことだが、内部で言えば、その後、出版民主化連盟とかいう左翼系の出版社が集まって、それが五人十人と社に訪ねてくるんだ。責任者を出せというので私が会った。すると「紙を何とかしろ。ストックがあるだろう。それを提供しろ」とかガンガンやってくるんだ。こっちを非国民呼ばわりしてね。それでこっちは「われわれにはストックなんてあるはずもないし、困っているくらいだ。また多少うちにあったにしろ、はき出せと君らに言う権利はない」と言い返した〉

実際のところ、当時の講談社には用紙のストックがかなりあったらしい。CIE新聞出版調査班の報告書によれば、このころの「講談社は、たとえ用紙割当がカットされても自己の貯蔵用紙で二年間営業し続けることができると予測」できる状態にあったという註(2)

 

2月23日、出版界粛清委員会の粛清措置が決まった。「戦犯七社」の全部に戦争責任があるとされたが、第一公論社、日本社は出版界からの撤退を自ら声明し、山海堂は戦後に社内の「民主化」がされたため、今回の措置に「黙って」服する方針であったという。

そうしたなかで残る4社への措置は次のように決められた。

(1)家の光協会……徹底的民主化と、その成果が確認されるまでの一時休刊。
(2)主婦之友社……『主婦之友』廃刊と石川社長の退陣。
(3)旺文社……社の解散、出版事業廃止と赤尾好夫(あかお・よしお)社長の引退。
(4)講談社……野間家の株式を全株の3割以内に止めること、編集機構の刷新(編集顧問会または編集委員会を社外の第三者を混えて設置すること)、幼年、少年、少女、婦人、大衆、娯楽、思想部門の書籍・雑誌の出版禁止。即ち文学、政治、農業、科学部門にとどめることなど。

一番軽い家の光協会はともかく、残る3社にとっては“死の宣告”に等しかった。

また、粛清措置には「この決定案を連合軍司令部は、完全にこれを支持承認すると言明した。服従しない場合には、司令部から強硬な命令が発せられる」旨の文言が添えられた。

4出版社側は、この措置の権限についてCIEに問い合わせた。CIEからは「(日本出版協会に)追放の権限を付与していない」が、SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)の公職追放令に調和するような自主的な追放には反対しないとの回答を受け取ったという。

この回答により日本出版協会がGHQから「追放の権限」を与えられていないことを確認した石川は粛清措置に拒否の回答書を出した。さらに2月25日には『主婦之友』の巻頭言で、日本人が「自分の責任はふりむきもせず、ひとの責任よばはりばかりしてゐ」る態度を批判し、「このままでいつたら、戦争でまけたうへに国内争闘で、日本はゆきづまつてしまふ」と記した。

事実、戦前からつづく出版社は規模の大小にかかわらず、何らかの程度で戦争協力に手を染めていた。戦犯追及の急先鋒である彰考書院の藤岡淳吉はもともと左翼出版人だが、その後ナチスの焚書を真似して、日比谷公園で1万冊の左翼書籍を焼いて右翼出版に転向した前歴を持つ。

日本出版協会の会長・石井満も、粛清の対象とした主婦之友社の石川武美の伝記を戦時中に出版している。『逞しき建設──主婦之友社長石川武美氏の信念とその事業』(教文館、1940年刊)のタイトルがついたその本は、石川や主婦之友社の全面協力の下で書かれたもので、石川を立志伝中の人物として賛美したものだった註(3)