新たにできたビジョン

その日から、「自分に生きている意味はある」ことを思い出すことができた山田さんには、新たなビジョンができた。まずは「歩けるようになる」ということ。自分の意思でトイレにいくことができず、ナースコールを押さなければいけないことが「前はできていた自分」と比較して心を暗くしていた。せめて食事だけは食べさせてくれようとするのを拒否して、必死に左手で食べていたが、そういう「自分でできる」をさらに増やしたい。それには、まず歩けるようになることが大切だと思った。

「自分でできるを増やす」ためにも、「残っている左手を強化する」ということにも力を入れた。現在の山田さんの左手は筋肉で太い。バレエを習っていたというよりもラグビー選手だったという方が説得力がある。それは事故の後のトレーニングによるたまものだ。

「歩けるようになる」ために、山田さんは義足についての情報を集めた。埼玉に義肢装具士がいる国立障害者リハビリテーションセンターという病院があることを知った。山田さんが入院していたのは横浜にあるみなと赤十字病院だったし、埼玉の所沢は自宅からも遠い。仕事をしている両親のヘルプも難しくなる。しかし「研究所があるということはスキルがあること」と国立障害者リハビリテーションセンターに転院することを決めた。2012年9月の終わりのことだった。意識が戻ってからわずか2ヵ月のことだ。

「大学生の友人たちが22歳の春に社会人になりますよね。だからそれまでに歩けるようになって、友達たちと同じ社会人生活を送ると決意したんです。なら、1年後には歩けるようになっていたい。そのためにも少しでも早く練習のできるところに転院したかったんです」(山田さん)

それから異例の速さで義足の使い方を習得、通常1年以上かかると言われながらも、半年で技術を取得、退院後は職業訓練などを経て22歳で社会復帰すると同時に一人暮らしを始めた。そして親しい友人たちとの飲み会にも歩いて行けるようになっていた。
「それこそ事故で入院してから、一度も実家には住んでいないんです。入院して、転院して、そのまま一人暮らしを始めた。自分ひとりで生活したかったんです」

昔からの親しい友人たちと。「半ズボンでないと義足だとわからなくて、ちょっと混んでいる電車だとドンとぶつかられたりする。左手はあるとはいえ、荷物もあって手で支えることが難しいので、転んだらひとたまりもない。だから通常は半ズボンでいるようにしています」(山田さん) 写真提供/山田千紘