ひと晩だけぐっすり眠れる誘惑

確かに。先生の前で少し吐いた後、母はすっきりしてしまい、数分前の腹痛のことを忘れ「早く帰ろうよ」と叫んでいる。この調子では病棟の看護師さんたちの手を焼かせるだろう。これまでのことを考えると、私の自宅に寝かせて緩下剤を使えば何とかなりそうにも思えた。
 
だが、それ以上に、今夜母がここに泊まってくれれば、自分がひと晩だけぐっすり眠れる、という誘惑の方が大きかった。
どうせ明け方あたりには、病棟の看護師さんから「ご家族が来て患者さんを落ち着かせてください」という悲鳴のような電話がかかってくることはわかっているが、それまでの数時間はゆっくりできる
 
事務手続きを終えて病棟に上がったとたん、母の叫び声が聞こえてきた。
 
取りあえず胃の中のものを取り除き、嘔吐による窒息や誤嚥性肺炎を防ぐために、鼻からチューブを入れられていたのだ。
私が顔を出したとたんに、「早く、警察を呼んでちょうだい」と繰り返す。
わけがわからず苦しいことをされるのはたまらないが、こればかりはどうにもならない。 「あんた、あたしがこんな目にあってると思ったら、あんただって今夜、眠れないだろ」
 
どこまでわかっているのか、さかんにそんなことを口にする。
「びっくりされたと思いますが、大丈夫ですから」
師長さんが落ち着いた口調で言う。続けてお医者さんから説明がある間、叫び声は延々と続いていた。
 
その夜私はビールで晩酌し、正体もなくぐっすり眠った。

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