「自分/他人は何者かである」という考えは、つねに誤謬である

失われた小説をもとめて【4】
藤田 祥平 プロフィール

私は、津軽弁がまったくわからなかったのだ。

名詞はかろうじて判る。しかし、動詞の語形変化、助動詞、助詞などは、まったくわからない。

淑女三名はたいへん囂しく、それでいて故人を偲ぶ様子であった。

「んだんだ」と三名は言った。

「んだんだ」と私はつぶやいた。

三十分後、私はすべてをあきらめて立ち上がり、「ごちそうさまでした」と言った。

店主の淑女の津軽弁がすっかり抜けて、「あら、ありがとうございました」と言った。

麦酒と突き出しと女将の酌で、千円だった。

スナックで千円。

異世界のごとき安さだ。

 

腹の内をさらけ出すこと

自分は何者かである、という考えは、つねに誤謬である。

ある人間をなんらかの肩書きで語ることほど、的外れな行いはない。

アーサー王はじつに感情豊かなひとで、他人の前でもよく泣いたという。

もちろん王は公にたいしては王であるが、それと同時に、喜怒哀楽や固有の感覚をもったひとりの人間だ。

ここのところをはき違えると、たいてい大げんかになる。

しかしながら、私は私自身にたいして、この誤謬をさかんに行ってきたように思う。たとえば私は、このようなテイストの連載をもち、自分の無能力をさらけ出すことは、「作家として」じつに恥ずかしいことなのかもしれない、と怯えていた。

これはおおきな間違いだった。

実際問題なにかを書き、食っていかなければならないという話はべつとして、しかし私はひとりの人間である。

ひとりの人間が腹の内をさらけ出すこと。ここに、人生がある。

恥さえもきれいにさばいて塩漬けにし、人様に供するのだ。

それができなければ、作家どころか、人間ですらない。

そして、自分にたいする診断のあまさ――べつの言い方をすれば、自分の心や状態を無視したかずかずの行動や発言が、結局は自分をこのような最果てへと追いこんだのだと、いまとなっては思う。致し方あるまい。人の上に立つを得ず、人の下につくを得ず、路傍に倒るるに適す。せめてそれまで誠実に仕事をするほかない。

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