私は、津軽弁がまったくわからなかったのだ。
名詞はかろうじて判る。しかし、動詞の語形変化、助動詞、助詞などは、まったくわからない。
淑女三名はたいへん囂しく、それでいて故人を偲ぶ様子であった。
「んだんだ」と三名は言った。
「んだんだ」と私はつぶやいた。
三十分後、私はすべてをあきらめて立ち上がり、「ごちそうさまでした」と言った。
店主の淑女の津軽弁がすっかり抜けて、「あら、ありがとうございました」と言った。
麦酒と突き出しと女将の酌で、千円だった。
スナックで千円。
異世界のごとき安さだ。
腹の内をさらけ出すこと
自分は何者かである、という考えは、つねに誤謬である。
ある人間をなんらかの肩書きで語ることほど、的外れな行いはない。
アーサー王はじつに感情豊かなひとで、他人の前でもよく泣いたという。
もちろん王は公にたいしては王であるが、それと同時に、喜怒哀楽や固有の感覚をもったひとりの人間だ。
ここのところをはき違えると、たいてい大げんかになる。
しかしながら、私は私自身にたいして、この誤謬をさかんに行ってきたように思う。たとえば私は、このようなテイストの連載をもち、自分の無能力をさらけ出すことは、「作家として」じつに恥ずかしいことなのかもしれない、と怯えていた。
これはおおきな間違いだった。
実際問題なにかを書き、食っていかなければならないという話はべつとして、しかし私はひとりの人間である。
ひとりの人間が腹の内をさらけ出すこと。ここに、人生がある。
恥さえもきれいにさばいて塩漬けにし、人様に供するのだ。
それができなければ、作家どころか、人間ですらない。
そして、自分にたいする診断のあまさ――べつの言い方をすれば、自分の心や状態を無視したかずかずの行動や発言が、結局は自分をこのような最果てへと追いこんだのだと、いまとなっては思う。致し方あるまい。人の上に立つを得ず、人の下につくを得ず、路傍に倒るるに適す。せめてそれまで誠実に仕事をするほかない。