講談社に解散の危機…4代目社長を襲ったGHQ「出版粛清」

大衆は神である(73)
魚住 昭 プロフィール

スズクラの哀しき「豹変」

この時期、目白邸では進駐軍の招待会が何度か催されている。

事務日誌によれば、昭和20年11月18日午後2時から5時まで大広間で、省一や町内会長、大塚署署長、区会議員らがホストとなって進駐軍を歓待した。進駐軍が帰ってからは、ほっとしたのか、7時まで慰労懇談会をやっている。

翌年2月20日夕には、2名の料理人を呼んで、進駐軍3名を歓待し、省一はその後、彼らと銀座に出かけている。同月28日にも進駐軍の大佐ほか2名に夕食を供している。省一はGHQの心証を少しでも良くしようと、接待に必死だったのだろう。

 

萱原宏一の『私の大衆文壇史』によれば、当時の食糧事情は戦時中よりも悪く、荒廃した街には浮浪児や売春婦が彷徨し、一般家庭には暖をとる炭も、パン一片もないありさまだった。

そんな最中の12月8日、熊本から出京してきた鈴木庫三・元中佐(敗戦時は鹿児島の輜重兵[しちょうへい]連隊の連隊長だった)がひょっこり萱原の前に姿をあらわした。

用件は世田谷にある鈴木の私宅を、高木前専務に買ってもらえないだろうか、その斡旋を願いたいということだった。しばらく雑談しての帰り際に、鈴木はだしぬけに言った。

「僕に何か頼みたい原稿があったら、いくらでも書くよ。だいたい民主主義だなんて言ったって、僕はそのほうの専門家だからねえ」

萱原は、鈴木の言葉を聞いた感想を次のように綴っている。

〈私は鈴木さんに対して、戦争中といえども、やり過ぎるとは思っていたが、特に悪感情を抱いた覚えはない。上司の胸中を臆測し、また独断で、猟犬のごとく奔走し、必要以上にやりつけた、その権力的官僚的独善性は、決して私どもの心情に合致するものではなかった。

けれども、非常時局の歴史のどこかには、鈴木さんのような人物が、必らず一人や二人は登場するものなのである。その意味において、私は鈴木さんの存在を認めていたのである。

然るに、民主主義の専門家と言うに至っては、少なからず落胆せざるを得なかった。私の知っている鈴木さんは、民主主義の専門家ではなく、民主主義討伐の専門家であったのだ。君子は豹変すというけれども、これは余りにも甚だしいではないか。

私は戦時下権力を笠に、出版界を恐怖せしめた、ある時代の小梟雄として、鈴木さんを認めようとしているのに、この一言は幻滅であった。鈴木さんが、おれは言論統制のために必死に戦ったが、とうとう敗けたよといって、ニヤッと笑ってくれたら、どんなにか嬉しかったであろう〉

GHQの意向は?

GHQが、講談社の戦時中の活動について本格的な調べを始めたのは昭和20年12月半ばのことである。調べの中心人物は民間情報教育局(CIE)の新聞課長ロバート・バーコフとわかった。

早速、奈良静馬がバーコフを訪ねると、「講談社は最悪の出版社で、なかでも『キング』『講談倶楽部』は、最悪中の最悪の雑誌だ」と言われて帰ってきた。省一の証言である。

〈それでびっくりしたわけですね。たしか十二月の相当押し詰まったころです。それまでは(GHQから)何も言ってこないから安心していたんです。ところが(バーコフ発言を聞いて)、これは大変だぞ、どういうことになることかと思い、一時僕は何も手につかないでいた。そこで、僕もバーコフさんに会いに行った。そしてその意向を質したことがある。

会っているうえでは僕が「民主的に、民主化してやっていく」と言うと、それに対して「大いに結構です」と言う。お前のところはやめろとは全然言わない。しかし、裏でですね。当時の左翼系の出版社が盛んに連絡をとっている。それがだんだん出版粛正(ママ)というふうな動きとなって出てきたわけです〉

翌21年1月4日、GHQは軍国主義者の公職追放と超国家主義団体の解散を指令した。

つづく9日の記者会見でGHQスポークスマンは「日本の出版界には戦時中、軍国主義的な出版物を刊行して国民をあやまったり、戦争熱をあおったりした出版社がある。目下それを調査中であるが、近く適当な措置がとられ、出版会は粛清されるであろう」と言明した。

GHQの意向次第では講談社に解散命令が下る可能性が浮上したのである。