読売ジャイアンツの監督に将来的に就任する可能性はあるのかと、度々話題に上がるのが、これまで数多くの伝説を残してきた名プレイヤー・松井秀喜氏。松井氏は人格者としても有名だが、一体どのような幼少時代を過ごしてきたのだろうか。

前回、小学1年生の時に屈辱的な経験をしたことから少年野球としばらく距離を置いていた松井氏が、小学5年生になって再び野球を始めるようになった経緯を、幼少期から読売ジャイアンツに入団するまでの道のりが綴られた講談社文庫『ひでさん〈松井秀喜ができたわけ〉』より抜粋掲載し紹介した。

今回は、野球だけでなく柔道でも好成績を打ち出し続けていた松井氏がどのような思いで中学校の進学先を決めたのか、本書より特別に抜粋掲載しFRaU WEBで紹介していく。周囲の大人たちの期待を一身に集めた、松井氏の決断と覚悟とは……。


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入部してわずか3か月の秀喜に監督は……

「根上少年野球クラブに入るので僕に合うユニフォームをください」

少年野球チームに入ることを決意した秀喜は、すぐにスポーツ用品店に行った。

小学5年の夏、ついに秀喜は根上少年野球クラブ入りが実現した。柔道もそのままやっているので、火曜日と木曜日の夕方約2時間は野球チームの練習、そのあと柔道の稽古と、両立することになった。

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秀喜が根上少年野球クラブに入って3ヵ月たった。監督の南が仕事の関係で転勤したために、10月から監督は曽原正昭に代わった。曽原は金沢高校から中京大の野球部に進み、勝つための野球を学んできた。物腰の柔らかさとは対照的に眼光の鋭さが信念の強さを表していた。

その時、すでにキャプテンは竹田に決まっていた。ところが、曽原はそれをいきなり覆した。それは根上町内の小さな社会問題にも発展しかねないほどの大胆な決断だった。

「今、竹田君にキャプテンをやって貰っているけれども、今日からキャプテンは松井君にやってもらう」

入部して僅か3ヵ月の秀喜を新チームのキャプテンに任命したのだ。

松井君には統率力があるから、頼む」

監督の言うことには絶対服従だった。秀喜はその時、複雑な思いだった。しかし「やるからには一生懸命にやろう」と気持ちを切り替えた。

「竹田君は松井君の持ってない別の能力を持っているから、それを伸ばしたほうがいい」

曽原は2人に気を使いながらもはっきりと言った。竹田の親も「監督の決めることやからどうぞ」とは言いつつもショックを隠せない。他の子供の親達も「途中で代えるなんてどんな監督や」と反発した。

父・昌雄もこの件に関しては、
――なんて無茶苦茶なことをしたのだろう。と面食らって「心苦しい」と申し出た。

「大丈夫です。任せてください」
曽原は押し切った。「間違いない。そのうちにわかる」という自信があったのだ。