昭和19年7月13日、谷田部海軍航空隊の零式練習戦闘機の事故。エンジン故障により水田に胴体着陸したが、このとき、搭乗員は2名とも助かっている

壮絶…奇跡的に生還したパイロットが「墜落した瞬間に思ったこと」

戦時下のおぞましい記憶

第二次大戦以降、戦争の主役となり、最前線で戦う航空機の搭乗員たちにとって、敵機からの銃撃や対空砲火によって撃墜されること、あるいは機の不良などによって墜落することは、そのまま死を意味した。

ところが、ごく稀に、この絶体絶命の状況から奇跡的に生還するケースがあった。撃墜され戦死して行った九割九分の搭乗員たちと、生還した彼らを分けたものは何だったのか。そして、彼らがのぞいた死の淵の風景とはどのようなものだったのだろうか。

 

「やられた」と思った瞬間、操縦席は炎に包まれた

「敵機が、下から撃ち上げてきました。曳痕弾が飛んでくるのがはっきり見えたけど避けようがない。カンカンカン、と機銃弾が命中する音が聞こえ、『やられた!』と思ったとたん、煙とガソリンが操縦席に噴き出してきて、次の瞬間、バン!と爆発しました。炎で目も開けていられないし、息もできない。顔に吹きつける炎を避けようと機体を横滑りさせてみたけど、全然効果はなかった。しかし、生きる本能でしょうかね、目も見えないのに、もう海面だ!と思ってエンジンのスイッチを切り、機首を引き上げたところがドンピシャリ、海面でした」

と語るのは、元零戦搭乗員・小町定さん(飛曹長/1920-2012。戦後、ビル経営)である。小町さんは、昭和13(1938)年、水兵として海軍に入り、部内選抜の操縦練習生を経て戦闘機パイロットになった。空母「翔鶴」に乗組み、真珠湾作戦やインド洋作戦、珊瑚海海戦、第二次ソロモン海戦、南太平洋海戦に参加、さらにラバウルやトラック島上空の邀撃戦をくぐり抜けてきた歴戦の搭乗員だった。

小町定さん。歴戦の搭乗員だったが、グアム島上空でグラマンF6Fに撃墜された(右写真撮影/神立尚紀)

昭和19(1944)年6月15日、サイパン島に米軍が上陸を開始、6月19日、岡本晴年少佐率いる第二五三海軍航空隊の零戦13機がトラックの竹島基地を発進してサイパン攻撃に向かう。小町さんはそのなかの1機として出撃していた。

トラックからサイパンまでは約600浬(約1100キロ)。航続距離の長い零戦でも、空戦を前提とした無着陸の往復は無理である。発進して飛ぶこと3時間あまり、やがて海の向こうにグアム島が見えてきた。岡本少佐は、ここで燃料補給をしようと、高度を下げて編隊を解き、一列縦隊で着陸態勢に入った。

ところがそこはすでに米軍の制空権下にあり、約10機のグラマンF6F戦闘機が遊弋していたのである。情報が乏しく、零戦隊はそのことを知る由もなかったのだ。小町さんの回想――。

「高度500メートルで解散、一列縦隊になって、一番機・岡本少佐、二番機・栢木(かやき)一男中尉、三番機・私の順で着陸態勢に入りました。まず岡本機が無事着陸し、栢木機がまさに接地しようとしたところでグラマンが上空から襲ってきたんです。いま思えば、指揮官はどうして一回り、上空を警戒しなかったのか。

栢木中尉は左腕を機銃弾に撃ち抜かれて重傷を負いました。私の高度は100メートル足らず。完全に着陸態勢に入っていたので失速寸前の状態でした。急いで脚を上げ、フラップをおさめ、機銃の安全装置をはずして戦闘態勢に入りましたが、スピードは急には上がりません……」

被弾し火焔に包まれた小町機は、そのまま海面に突っ込んだ。生死を分けたのは、着水寸前、本能的に操縦桿を引き、浅い角度の不時着水に近い形での墜落になったからだった。

小町さんは、顔と手足に大火傷を負ったが奇跡的に助かり、数日後、迎えの一式陸攻に乗せられグアムを脱出、トラックに帰り、そこから病院船「氷川丸」で内地に送還された。この病院船は、現在、横浜・山下公園に係留されている「日本郵船氷川丸」である。

「顔も手足もベロンベロンで、ビフテキのレアぐらいには焼けていました。あんまり痛々しいから『氷川丸』の乗組員が同情してくれて、内地では砂糖がなくて困っているから家族に持って帰りなさい、と砂糖をどっさりくれました。それを土産に帰ったんですが、包帯をぐるぐる巻かれてミイラのような私の姿に、家内が卒倒するぐらいにびっくりして。でも喜んでくれましたよ」

戦争体験を持つ多くの元パイロットへインタビューを重ねてきたが、このように、乗機が撃墜され、あるいは墜落したときの話ができる人は多くない。言うまでもなく、乗っていた飛行機が墜ちるということは、大抵の場合、死に直結するからだ。生還した人は、一種の臨死体験をしたとも言えるが、生死を分けたのは果たして何だったのか。小町さんのように、ギリギリのところでの無意識の操縦操作で助かったと思われる例もあって、単に「運がよかった」の一言では片づけられないことのようである。