昭和19年10月25日、特攻機の突入を受け炎上する米護衛空母「セント・ロー」

特攻機の盾となった戦闘機乗りが、目の当たりにした「司令部の無策」

75年前の今日、最初の特攻機が突入

75年前の今日、1944年10月25日、最初の特攻隊である「敷島隊」が米海軍機動部隊に突入した。

この爆弾を抱いた航空機で敵艦に体当たりする「搭乗員必死」の戦法は、戦局が圧倒的に不利になってから採用された作戦である。だが、実はこの2年前、日本艦隊が最後に米艦隊と互角に渡り合った「南太平洋海戦」では、生還不能としか思われない戦場へ搭乗員たちが死を決して出撃して行くという状況になっていたという。

この海戦で艦上爆撃機搭乗員だった兄を失い、自らも戦闘機隊の飛行隊長として特攻機の護衛に出撃した岩下邦雄さんは、特攻という作戦に非があるとすれば、作戦を運用した司令部のあまりの無策ぶりにあるという。

 

「兄貴の出撃は、特攻に近かった」

昭和19(1944)年10月25日、フィリピン・レイテ島沖で、「神風特別攻撃隊(特攻隊)」が、初めて米護衛空母に突入。250キロ爆弾を搭載したのべ10機の零戦による体当り攻撃で、護衛空母1隻を撃沈、5隻に損傷を与えた。いまからちょうど75年前のことである。

これら特攻隊の目的は、レイテ湾に押し寄せる敵上陸部隊を粉砕するため、総力を挙げて出撃した戦艦「大和」以下の主力艦隊が無事に目的地にたどりつけるよう、脅威となる敵空母の飛行甲板を破壊し、しばらくの間、使用不能にすることだった。

この日、突入に成功した特攻隊は、満23歳の関行男大尉を指揮官とする「敷島隊」「大和隊」「菊水隊」「朝日隊」の四隊で、爆弾を搭載した「爆装機」と、爆装機の突入を自ら盾になって掩護し、戦果を見届ける「直掩(ちょくえん)機」、それぞれ数機で一隊を編成していた。

昭和19年10月20日、特攻隊編成の日。バンバン川の河原で敷島隊、大和隊の別杯。手前の後ろ姿は大西瀧治郎中将。向かって左から、門司親徳主計大尉、玉井浅一中佐(いずれも後ろ姿)、関行男大尉、中野盤雄一飛曹、山下憲行一飛曹、谷暢夫一飛曹、塩田寛一飛曹

「比島沖海戦」と呼ばれるこの戦いで、日本艦隊によるレイテ湾突入は、結局、失敗に終わり、壊滅に近い惨敗を喫する。だが、戦法としての「特攻」は、その後も終戦まで続けられ、空に、海に、多くの若い命が失われた。

戦後、10月25日にはいくつもの慰霊祭や慰霊法要が執り行われ、関大尉(戦死後、二階級進級で中佐)の故郷・愛媛県西条市の楢本神社に昭和50(1975)年に建てられた慰霊碑の前では、いまも盛大な慰霊祭が挙行されている。

最初の神風特攻隊指揮官・関行男大尉

一切公開されることなく、当事者だけでひっそりと営まれた慰霊行事もあった。東京・芝の寺にかつての軍令部総長や司令長官、司令部職員や元特攻隊員が集った「神風忌」(しんぷうき)と称する慰霊法要も、その一つである。

「神風忌」の法要は昭和21(1946)年から平成17(2005)年まで、60回にわたって続けられた。参列者名簿には、及川古志郎大将、福留繁中将、寺岡謹平中将、猪口力平大佐(戦後、詫間と改姓)をはじめ、特攻に関わった指揮官たちの名前が、それぞれ生を終える直前まで残されていて、「命じる側」の良心の呵責を垣間見ることができる。私は許しを得て、この慰霊法要に最後の4年間、参列することができた。

東京・芝の寺で戦後60年にわたり、10月25日に営まれていた「神風忌」慰霊法要の芳名帳。軍令部総長・及川古志郎大将や福留繁中将、寺岡謹平中将、戸塚道太郎中将らの名が記されている

「神風忌」に欠かさず参列していた人のなかに、フィリピンや沖縄の戦いで特攻機を護衛し、激戦をくぐり抜けた戦闘機乗り・岩下邦雄(大尉/1921-2013。戦後、会社経営)がいた。

岩下は、昭和13(1938)年、海軍兵学校(海兵)に六十九期生として入校、卒業後は巡洋艦「羽黒」「青葉」乗組を経て飛行学生となり、戦闘機搭乗員となった。兄・豊も同じく海兵(六十六期)卒業後、艦上爆撃機(艦爆。急降下爆撃機)のパイロットになっている。兄弟ともに飛行学生を一番の成績で修了、恩賜の銀時計を授与された。

兄弟で飛行学生トップというのは日本海軍でも唯一の例だが、邦雄にとっては豊という目標があればこそのことだった。

岩下邦雄大尉(右写真撮影/神立尚紀)
岩下豊、邦雄兄弟。昭和13年9月、海軍兵学校にて。当時、兄・豊(左)は、最上級生で21歳、弟・邦雄は最下級生で18歳だった

兄・豊は昭和17(1942)年5月27日、結婚して姓が石丸と変わるが、同年10月26日、空母「瑞鶴」艦爆隊分隊長として日米機動部隊が激突した「南太平洋海戦」に参加。米空母「ホーネット」に爆弾を命中させたものの、自らも被弾、重傷を負う。かろうじて味方艦隊上空へたどり着いたが、力尽きて不時着水、救助された駆逐艦の艦上で、「ズイカク……」と一言発してこと切れたと伝えられている。新婚わずか5ヵ月の出来事だった。

「神風忌」の慰霊法要のとき、岩下は、

「今日は海兵で一期後輩の関君たちの命日。明日は兄貴の命日。尊敬できる自慢の兄でした。この両日は、私にとっては特別な日です」

と、挨拶するのがつねだった。

「兄貴の出撃も、ある意味、特攻に近かったと思うんですよ」

南太平洋海戦で戦死した岩下邦雄の兄・石丸豊大尉(結婚で石丸姓になる)

「十死零生」の特攻隊と、生きて再び戦う余地が残されたほかの部隊とで、隊員の精神状態を比較することはむずかしい。だが、いまから77年前の昭和17(1942)年10月26日に戦われた「南太平洋海戦」は、その2年後に始まった「特攻」と比較して、岩下がそう回想してもおかしくないほどに凄絶な戦いだった。