玉音放送と終戦…野間省一が社員に語った意外な「宣言」

大衆は神である(72)

ノンフィクション作家・魚住昭氏が極秘資料をひもとき、講談社創業家・野間家が歩んできた激動の日々と、日本出版界の知られざる歴史を描き出す大河連載「大衆は神である」。
 

戦況が困窮する一方で、出版業界に「日本精神」という神がかりの思想が覆い始める。講談社が創刊した「新雑誌」にも、陸軍と海軍が深く関与していた。そんな中、ついに終戦の日が訪れようとしていた――。

第八章 再 生──狂瀾怒濤(1)

日本が負ければ、講談社が無事で済むはずがない

昭和20年(1945)8月10日、皇居内の防空壕で午前0時3分から始まった御前会議がポツダム宣言受諾を決定したのは、午前2時半近くのことであった。

しかし、野間省一が戦争終結を知ったのは、それよりも早い、9日の夕刻だった。これから開かれる御前会議で戦争を終結し、無条件降伏することになるという。

 

情報をもたらしたのは、当時目白邸に住んでいた東京都食糧課長の高橋良麿(たかはし・よしまろ)だった。

良麿は高木義賢の3女・美枝子の夫で、もともとは警察畑を歩いてきた内務官僚だから、中央官庁に太いパイプがあって、そのあたりからニュースを仕入れたらしい。

省一の耳に情報を入れたのは、良麿だけではない。講談社取締役・奈良静馬(なら・しずま)の息子の靖彦(のちに駐シンガポール大使、駐南ベトナム大使、駐カナダ大使を歴任)は外交官として外務省で短波放送を聞いていたので、日本の敗戦にいたる経緯をよく知っており、それを父・静馬に話している。省一は静馬からも日本の敗戦が近いことを聞いていたようだ。

9日夜、省一は目白邸に寝泊まりしている若い社員を使いに走らせ、あまり遠くないところに住む役員や部課長らを招集した。無条件降伏を知らせ、今後の社の方針を相談するためである。

その日、講談社ナンバー2の専務・高木義賢は、家族の疎開先の秩父に行っていた。社長の左衛も静岡県岩淵の別荘「古渓荘」にいて留守だった。

講談社の第1号少年社員で、用度課長の高橋宭一(たかはし・くんいち)は夜の11時ごろ、赤羽の自宅に社員が迎えに来たので、真っ暗な道を自転車で途中転んだりしながら、目白に急いだ。

着いてみると、社長邸にはすでに主立った者が集まっていた。みんな重苦しい空気に沈み、なかには酒を飲んでいる者もいた。『キング』の元編集長・橋本求は、

「こうなったからには、思想も変わる。政治も変わる。出版の方法も変わるだろう。忠君愛国の我々は殺されるかもしれないが、地下に潜ってでも雑誌を出そう」

と勇ましいことを言った。印刷所が焼けて印刷できないかもしれない、と誰かが言うと、

「謄写版刷りでもいいから出して行こう」

という声があがり、異様な雰囲気になった。

高橋宭一は監査役の松岡然治(まつおか・ぜんじ)に、

「松岡さん、金はあるかね? 解散をしなければなるまいから」

と訊いた。松岡が、

「いま金庫のなかに100万円ある」

と答えたので、宭一は、

「それなら、一時解散しても当分差し支えないね」

と言った。米軍が上陸して来たら、講談社が無事で済むはずがないと誰もが思っていたのである。

現に、本社の5〜6階には、立川にあった陸軍航空技術研究所が6月以来移り住み、さらに4階の一部には、陸軍の要請でつくられた日本報道社が5月の空襲で社屋をなくしたため、社員20名とともに移っていた。陸軍と講談社の関係の深さは、今さら否定しようもなかった。