今日愛好されるオペラを作った人たちは、作曲家も脚本家も男性ばかりです。彼らが知らず知らずに男性中心主義に陥っているとしても、彼らの罪ではないでしょう。が、現在の視点からそれを批判的に見ることもまた必要に違いありません。
そういうことに無自覚にオペラを上演したり鑑賞したりすることは、非文明的な後戻りを助けることにしかならないのではないか。私はなにごとも「それは文化だ」と言って許容し、それどころか価値を見出そうとする態度や論調に強い嫌悪感を覚えます。
かつての中国の纏足(てんそく)も、イタリアのカストラートも、今の日本のある種の漫画も文化には違いありますまい。
だが、少女の足をぐるぐる巻きにしてまともに歩けなくすることがはたしてすばらしい文化なのか。男の子を去勢して、高い声を保つことが、たとえ美しい音楽のためだとしても、許されることなのか。たとえ想像上のことであり、現実としては被害者はいないにしても、少女を男たちが性的にいたぶるような漫画表現が、胸を張って自慢できるようなことなのか。
私は「文化」の上に「文明」があるべきだと考えます。文化とは過去や現在の姿です。しかし、これからあるべきことを考えて作り出すのが「文明」です。これは一般的な定義とはややずれるでしょうが、私はそのように言葉の使い分けをしたいと思います。
ついでに言うと、オペラを大喜びで見ている男性たちにも、私は違和感を覚えます。彼らは、オペラの中で描かれている古い男女関係に浸って安心しているのではないか。私は、オペラを楽しみつつも、それがあまりに男性中心の価値観で作られていることに、うしろめたさを感じる瞬間があります。
本書で何人かの演出家の名前を挙げていますが、ペーター・コンヴィチュニーやカリスト・ビエイトが作り出す舞台に共感を覚えるのは、彼らが弱者の視点を持っているからです。
たとえば、コンヴィチュニーは「さまよえるオランダ人」(ミュンヘン)で、最後の救済を破壊してしまいました。ゼンタが海に飛び込んで自殺したあと、普通なら、オーケストラが高らかに男の魂が救われたことを表す音楽を奏で、観客がカタルシスを味わっているさなかに幕が下りるのですが、彼の演出では、もはやオーケストラは演奏しません。ラジカセのようなちゃちな音がスピーカーから流れるだけです。
女が命を捨てて男を救う、そんなことがあってはならないし、それがクライマックスになってはいけないというわけです。