ついに暴力団「最終局面」へ…山口組・髙山若頭の出所と厳しい現実

去るも地獄、残るも地獄?
伊藤 博敏 プロフィール

髙山若頭の人生

髙山若頭は、47年、愛知県津島に生まれ、高校を中退すると無頼の道に入り、20歳の時、弘道会の前身の弘田組系組員となる。前回の東京五輪の3年後だった。

高度経済成長期の稼業入りであり、興行、港湾荷役、土建、地上げ、人材派遣、債権回収、表裏の金融と、暴力団が経済成長の“余力”を得て潤った時代の構成員である。

「菱(山口組)の代紋」のために体を張った司六代目が、13年の長期刑を終え出所、84年、弘道会を設立すると若頭補佐として参画。やがてナンバー2の若頭となって司六代目を支える。

 

「司会長を日本一の親分にする、というのが口癖。家も車も親分のために『最高のもの』を用意。司会長が博打に負けると、それが何千万円でもきれいに返した。『十仁会』という秘密攻撃組織を作ったのも、徹底的な情報管理で組織を締めつける『弘道会方式』を確立したのも髙山さん」(弘道会元幹部)

それに最も反発したのが神戸山口組の井上組長だった。48年生まれで髙山若頭のひとつ下。高校中退後の稼業入りも同じで、渡辺芳則五代目のもとで修行を積み、78年、「大阪戦争」と呼ばれる抗争事件で逮捕され、懲役17年の実刑判決を受ける。00年に出所、山健組系健竜会長となった。

暴力団構成員が代紋を大切にするのは、その力の背景を持つことにより、メシが食えるからである。だから「菱の代紋」は、全国の暴力団の半数を占めるほど大きくなり、なかでも当代の出身母体は肥え太る。

五代目時代は山健組であり、六代目時代は弘道会。結局、山口組の分裂と抗争は、旧勢力と新勢力のケンカである。

ただ、かつてとの違いは代紋が意味を成さなくなったこと。度重なる暴対法の改正と10年の暴排条例の施行によって、暴力団構成員は職業と人権を奪われた。三派の山口組を合わせても1万人を割ったのは、「食えない職業」となったからだ。