こうして一家の主婦として四男二女を育てながら幼稚園の園長として働き、夜になると机に向かって『古事記』の原文を読みこなしたうえで、子どもたちでも理解できるように書き換えていくという日々が始まった。明け方の2時、3時までペンを走らせていることも、しばしばだったという。
藤田さんの孫で、現在、赤橋幼稚園の理事長をしている松塚正道さんは、藤田さんの娘である母から、当時の様子を聞いていた。松塚さんは、こう振り返る。
「子どもたちの記憶に残っている祖母(藤田さん)は、机に向かっている後ろ姿ばかりだったそうです。昼間は幼稚園で働き、家に帰れば執筆ばかりしていたからです」
旧友によって、陛下へと渡った
やがて10年ほどがたち、藤田さんの労作は完成した。この本に対する世間の反応は、前述したとおりである。押しも押されぬベストセラーになった。
藤田さんは、自分の書いた本を見せたい、読んでほしいという思いで、日本女子大学時代の友人である高木多津雄さんに『カミサマノオハナシ』を贈った。「多津雄」とは男性の名前のようだが、高木さんは皇室付きの女官である。そして、この「送本」によって、藤田さんが予想もしない出来事が起きた。
驚くべきことに、高木さんから藤田さんのもとに、こんな情報がもたらされたのだ。
皇室と縁があるわけでもない、大阪の一幼稚園の園長が書いた本を、皇太子さまが読んでいてくださっている――。戦前の皇室と国民との関係からすれば、信じられない出来事であった。
驚きと、あまりのもったいなさに藤田さんの胸はいっぱいになった。そして、この破格の感動は、その後、四半世紀経って、ふたたび藤田さんにめぐってくることになるのである。
昭和40年(1965)7月、藤田さんのもとに一通の手紙が届いた。差出人は、あの高木さんからである。高木さんはすでに女官を退官していた。
25年も前のことを、皇太子さまが覚えていてくださった。そればかりか、自分が書いた本が、皇室で二度目のお勤めをさせていただける――。藤田さんは、これほど光栄に思ったことはなかったという。
さっそく家中を探した藤田さんだったが、『カミサマノオハナシ』が発行されたのは終戦前のことである。家にあった本はすべて戦災で焼かれ、一冊も残っていなかった。