同性愛を毛嫌いする人、自らの同性愛傾向に苦しむ人、共に感じる圧力

セクシュアリティをめぐる本音と建て前
ジュリア ショウ

バイセクシャルだけは許せない?

私は異性愛コミュニティがあこがれるある集団に属しているが、その集団の人たちが完全に同性愛コミュニティに属しているとは思わない。私自身の経験と、これを調査したふたりの研究者ミレーヌ・アラリーとステファニー・ゴーデーによれば、私の集団のメンバーはよく「一時的なもの」といわれ、私は「欲張りだ」「男性の注意を引くためにそうしている」とさえいわれる。私はほとんど表に出ない集団に属している。それは異性愛者からは同性愛者ほど評価してもらえず、同性愛者からは異性愛者ほど評価してもらえない性的指向だ。

どうか聞いてほしい。見た目ではわからないけれど。私はバイセクシャル、両性愛者だ。

(C) Boris Breuer

このことを知っている人はほとんどいない。私は何十年もの間、両性愛の不可視化という問題の一部だったから、おそらく自分でも知らないうちに両性愛の消去に一役買ってきたのだろう。両性愛の消去とは、本物のセクシュアリティの形としての両性愛を拒絶することだ。アラリーとゴーデーによれば、「一生変わらない本物の個性、生き方としての両性愛は、存在を忘れられたり、否定されたりすることが多い」。

この研究者たちが気づいたのは、同性愛を受け入れている若者たちの中にさえ、両性愛を認めない意見を支持する人がいることだ。彼女らは若者たちの両性愛に対する意見を調査するうち、「被験者たちは両性愛を不可視化した結果、意図せず性の二者択一を強いている」ことを発見した。彼女らが指摘するのは、普段から社会は男女を区別するなと教え、さらにゲイとストレートも区別するなと教えているが、それを組み合わせるのは許されないということだ。

両性愛には他者に対し公明正大とはいえない部分がある。たいていつき合う相手の性を選べるという、性的に気まぐれなところがあるからだ。それに比べ、同性愛は概して秘密にするのがむずかしく、法律的あるいは社会的な厳罰を科す一部の国々では特に容赦のない対応がなされる。しかし両性愛は表面的にはわからないからこそ、自分たちを不可視化させているという残念な結果を招く。

 

前述の教室で自分のセクシュアリティを打ち明けた学生たちはどうかと? 彼らの告白のきっかけとなったのは学問的な議論だけではなかった。彼らが具体的に話し始めたのは、私が自分自身のセクシュアリティを告白したあとだった。私はほとんどの学生にとって初めて出会った、「率直に」バイセクシャルを名乗る人間だ。するとそれに応えるように、LGBTQIPA+の学生たちの中に力がわき上がるのが感じられた。親近感と安心感、そして自分自身の物語を話したいという気持ちがわいてきたのだ。初めてそんな気持ちになった学生もいた。それは美しい場面だった。

触ったと想像しただけで洗いたくなる

とはいえ、すべてのカミングアウトが美しく感じられるわけではない。主流から外れた性的傾向や性同一性を人前で明かしたことのある人なら、語るべき物語がある。それは一部の人たちが隠そうともしない反感の物語だ。

二〇一四年の調査によれば、被験者たちは同性愛者との接触を想像しただけで、自分の体を洗いたくなると答えている。これが「そのことは秘密にしておけ」という忠告につながる。愛さずにはいられない相手にその苦しい思いを打ち明けたとたん、相手は離れていく。そして嫌悪の裏側にあるものも、たいていはよいものではない。乱交を連想するのは昔の話とはいえ、性的に普通でない者は、他の多くの面でも普通でないと決めつけられる。

この状況を変えたければ、話し合う必要がある。接触仮説によれば、特定の集団の人たちと接触し、その人たちを気に入れば気に入るほど、相手を理解できない集団のメンバーとしてではなく、人間として見るようになる。この種の話し合いと態度の変化は、生活の他の部分にも広がっていく可能性がある。別の調査によれば、ゲイの平等に対する支持を話し合ったところ、その影響が広範囲に広がった。著者たちは、「少数派と交流し、彼らの問題を話し合えば、次々と意見の変化を起こしていける」ことを発見したのだ。

人は自分がよくわからないことに不安を感じる。だからこそ勇気を出そう。私たちが求める文化変容を起こせるのは率直さだけだ。

◆ジュリア・ショウ『悪について誰もが知るべき10の事実』(講談社刊)第5章「いかがわしさを探る――性的逸脱の科学」より抜粋。翻訳:服部由美