「カレー給食を中止」する学校文化に「欠けている論理」を考えてみた

プログラミング教育必修化は愚策に?
岡嶋 裕史 プロフィール

目的は、誰だって設定することができる。お金持ちになりたいとか、10kg減量したいとか、空母を作りたいとか、やりたいことはすぐに思いつく。

それを実現する手段も、まあなんとなくイメージできる。働けばいいだろうとか、食べなければいいだろうとか、板金を溶接していけばいいんだろうかとか、想像はできる。

でも、それは自分事ではない。誰かすごい組織力や資金力を持っている「自分とは別の人」がやる作業である。だって、自分にはできそうもないもの。

それを、自分でできるくらいにブレイクダウンする作業が必要なのであるが、ここがとても難しい。会社に入ればWBS(Work Breakdown Structure)くらい新人研修で教えてくれるが、小学生や中学生にとって、いまの社会や情報システム、コンピュータ、スマホはあまりにも高度な魔法になっていて、これを使って何かしようと思っても、何をしたらいいのかがわからない。

でも、これらも普通の仕事と同じ。空母を作るといった雲の上のような大きな最終目標でも、ネジ止めのような作業はどこかで必要で、それは自分にもできそうである。そして、どんな大きな建造物や高度な情報システムも、そうしたシンプルな作業や仕事の集積によってできているのだ。

ネジを止めることなら自分にもできそうだ Photo by iStock
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以前は基本4教科や基本5教科を通じて、こうした事実を学んでいた。でも、社会のしくみが変わって、既存教科ではなかなかそれが実感できなくなってきた。だから、ツールとしてプログラミングを取り入れる。この流れに、私は賛成である。

PCとの、「純度100%」のコミュニケーション

私も最初、「プログラミング教育を必修化、しかも小学校で」というフレーズだけを聞いたときは、ちょっといやな気持ちになった。自分が小学生の時にプログラムでお金をもらうようなバックグラウンドをもっていたにもかかわらず、である。

だって、あんなマニアックな技術を万人が覚える必要はない。

でも、プログラミングで絶対的に必要とされる他者理解、仕事の把握と分割、それを異なるバックグラウンドを持つ他者に正確に伝える表現能力、それらを情実ではなく論理ですべて行わなければならない環境に軸足が置かれるのだとしたら、プログラミング教育はとってもいいと思うのである。

コンピュータは、「おなべを見ておいて」と指示しても、決してこちらの思い通りには動いてくれない。ただ見るだけである。「おなべを観測し」「怪しい雰囲気を感じたら」「火力を絞る」などとブレイクダウンしなければならない。いや、これでも無理だ。「怪しい雰囲気」を定義しなければならない。

「プログラミングをする(コンピュータに指示をする)」とは、「相手はどう世界を捉え、関わっているのかを観察し、それに見合った仕事の指示の仕方を考え、記述する」ことと同義である。コミュニケーションそのものと捉えて間違いない。

プログラミングというと、コミュニケーションとは真逆の行為のように思われるだろうが、自分とは考え方やものの見方が絶対的に違う他者と、ひいひい言いながらやり取りするという意味においては、純度100%のコミュニケーションである。多様共生社会を生き抜く力を養うのにぴったりの能力だろう。

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そして、コンピュータの理解力はひどく冴えないので、「おなべを見ておいて」だの「空母を造って」だのといった「大きな指示」は絶対に通らない。仕事をコンピュータが実行可能な水準に「小さくしてあげる」ことが必要だし、小さく分割した以上は仕事の並べ方も重要である。これはまさに業務における段取りや仕切りを行う能力に等しい。

さらにコンピュータに「気持ち」が通用しないところも、とってもいい。

日本の業務現場も教育現場も、いまに至るもやっぱり最後には「気合い」が出てくる。本人の心持ちや我慢で、なんとなく問題を解決した気になってしまうアレである。

でも、それが問題を先送りしているだけで、解決しているわけではないことはみんなが感じている通りである。

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