「カレー給食を中止」する学校文化に「欠けている論理」を考えてみた

プログラミング教育必修化は愚策に?
岡嶋 裕史 プロフィール

みんなが参加して、完璧なものや完全な合意は無理でも、どんどん新しいものを生み出して、その中から自分の好きなサービスや生き方を選択していく、そのダイナミックな動きに自分も主体性を持って参加しているという喜びを生むはずのものだった。

もちろん、これはある種のユートピア思想で、現実がそんなにうまく回らないことは誰もが承知している。でも、現実が現時点で理想通りになっていないからといって、理想を諦める必要はない。

上で引用した手引きは、少なくともそうした理想を、やはり自分たちの手の中に取り戻していこう、そうしたことができる人材を育成していこうという宣言として受け取れる。

コンピュータは決して「魔法の箱」ではない

スマホやアプリは魔法ではなく、人間の考えで動いていること。その人間の考えはプログラミング言語という形式で表現され、コンピュータが理解できる形式になっていること。プログラミング言語によって行うコンピュータへの指示は、1つ1つをよく見れば非常に単純で、理解可能である。

プログラミングPhoto by Pixabay
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たとえそれがAIと呼ばれるものであっても、コンピュータとは決して魔法の箱ではなく、単純作業を大量に高速に間違えずに飽きずに繰り返すことに最大の特徴がある機械である。

それを知るだけでも、いま私たちが社会と対峙するときに覚えずにはいられない無力感を、やわらげる効果があるだろう。

私たちはもう一度、人生を自分の手に取り戻したいのである。

そして、この手引きの最大の主張は、プログラミング教育を通じて「プログラミング的思考」を育む、としている点である。またけったいな造語が出てきたが、悪いものではない。ちょっと長いが、手引きから引用しよう。

「自分が意図する一連の活動を実現するために、どのような動きの組み合わせが必要であり、一つ一つの動きの対応した記号を、どのように組み合わせたらいいのか、記号の組み合わせをどのように改善していけば、より意図した活動に近づくのか、といったことを論理的に考えていく力」

情報技術を身につけろ、とは一言も書いていない。先にも述べたように、プログラミングテクニックを覚えさせること、使いこなせるようになることは、今回のプログラミング教育必修化の主旨ではない。

「社会で生き抜く力」を育むのが学校教育

では、何なのか? 上記の文章は、実に当たり前のことが書いてある。これは要するに、社会で生き抜く力である。本来、学校教育とは、すべてこれを目指してきたのだ。

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