大ヒット問題作『ジョーカー』共感と酷評がまっぷたつのワケ

彼は分断の原因か、それとも結果か
御田寺 圭 プロフィール

「善悪を決めるのは主観だ」

なんらかの「生きづらさ」を抱えているがゆえに、「ただしく」ふるまえない人びとの居場所はどんどんと失われていく。「コミュニケーション能力」とか「仕事ができる」とか「頭が良い」といったパラメーターの重要性が全盛を迎えている現代では、なおさらだ。

「ただしく」ふるまえない人びとは、社会的・経済的に窮地に追い込まれていくばかりか、社会が「価値がある」とみなす能力に恵まれた「ただしい」人びとによって、「ただしくない」と烙印を押されて疎外・排除され、不可視化されて、関心や慈しみさえも得られなくなっていく。

アーサーは自分を偽ることができなかった。「ありのままに」しか生きられない人間だった。だが彼の「ありのまま」の姿は、社会から到底受け入れられるようなものではなかったのだ。

「ありのままでいればいい」ということばが、ある映画をきっかけに流行ったりもしたが、嘘もよいところだろう。「ありのまま」の姿で受け入れてもらえる人は、そう多くはない。「ありのまま」でいれば、アーサーのように疎外される人も珍しくはない。私たちは大なり小なり、他人に、自分に、嘘をつくことを強いられている。そうしなければ「ただしく」生きていけないからだ。

 

経済的に恵まれ、教養豊かで知能が高く、コミュニケーション能力に優れた者が彼らの主観で設定する「ただしさ」にマッチしない人びとにとっては、この社会はもう、尊重するに値しないものになりはじめている。ジョーカーとなったアーサーは自らを公衆の面前で嘲笑した男に、こう問いかける。

マレー、喜劇とはなんだと思う? それは結局のところ主観に過ぎない。善悪だってそうだ。なにがただしく、なにが間違っているかを決めているのは主観だ。

ジョーカーに寄せられる世界中の共感は、疎外された人びとが大勢いることの「結果」でしかない。『ジョーカー』によって社会不安が増したり、暴力的な事件が増えたりすることを懸念するくらいなら、なぜ多くの人がいま『ジョーカー』の物語に共感しているのかに思いを馳せた方がよいだろう。

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