大ヒット問題作『ジョーカー』共感と酷評がまっぷたつのワケ

彼は分断の原因か、それとも結果か
御田寺 圭 プロフィール

ジョーカーが「分断の原因」なのか?

もちろん、「生きづらさ」を抱えているからといって、だれもがジョーカーに変貌するわけではない。現実にはジョーカーのように軽々とその一線を超えられない。

しかし、排除や疎外に苦しむ「顧みられない生きづらさ」を抱える人びとが、自分の窮状を一切顧みない社会の安寧秩序のために積極的に尽くそうなどと思うだろうか。

その一線を超えないギリギリのところで、声なき声を押し殺して懸命に生きている人が、この社会には実際にたくさんいる。劇中でエリートサラリーマンが殺害されたことを喜ぶゴッサムシティの人びとがいたように、少なくとも現実世界でも「リッチなヒーローの勧善懲悪物語」には、もはや多くの人が素直に賛同できない状況にはなりつつあるのだろう。

 
〈ジョーカーというキャラクターにすごみを与えてきたのは、人物像の読み取りにくさだ。それでも、アーサーが精神を病んでいることははっきり分かる。その病に拍車を掛けているのは、コミュニティーと社会的セーフティーネットの不在だ。

『ジョーカー』の建前は、アーサーを理解しつつも、その行動は容認しないこと。しかしオルト・ライト(白人至上主義の極右勢力)は、自分たちのメッセージをオンライン上で拡散させるために、この映画に登場する要素を利用し始めている〉
(ニューズウィーク日本版「『ジョーカー』怒りを正当化する時代に怒りを描く危うい映画」2019年10月5日より引用)

『ジョーカー』はさっそく、リベラル・メディアを中心として「オルタナ右翼が自分たちの怒りを正当化させるためのプロパガンダとして本作を利用し始めた」と批判されている。

だが、この社会の分断をつくり出しているのは本当に「オルタナ右翼」なのだろうか。「オルタナ右翼」の勃興は分断の原因ではなく、むしろ結果として生じたものだったのではないか。トランプ旋風や西欧各国における極右の台頭も同じく、原因ではなく結果でしかない。この社会が排除してきた「顧みられない生きづらさ」を抱える人の数が、いよいよ無視できないレベルにまで積み上がってしまったからだ。

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この社会に「分断」が表面化するに至ったのは、焼け落ちる寺院には涙を流して寄付をするが、黄色いベストを着て暴れまわる貧乏人にはびた一文支払わないような、ネオリベラル・グローバル資本主義の拡大によるところが大きいのではないだろうか。

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