今年は、小説家・劇作家の井上ひさしさん没後10年のメモリアルイヤー。「井上ひさしメモリアル10」として、幻の初期作から、プロレタリア文学の旗手である小林多喜二の生涯を描いた『組曲虐殺』まで、様々な作品が上演されている。初演から10年、多喜二を演じるのは3度目になる井上芳雄さんにとっても、『組曲虐殺』は特別な作品だ。「初演から今までずっと、井上先生と多喜二のことはいつも心の中にありました」。ミュージカル界のプリンスが、この作品を通して掴んだ“希望”、次の世代に手渡したい“希望”とは――?

Photo by Akina Okada

誰もが、井上先生の“言葉”に
心を揺さぶられました

むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに

これは、2010年にこの世を去った井上ひさしさんの創作のモットーである。『ひょっこりひょうたん島』のような子供向けの戯曲や、映画にもなった『父と暮らせば』、日本SF大賞を受賞した『吉里吉里人』など、幅広いジャンルで、多くの戯曲や小説をものした井上さんが、『組曲虐殺』を手がけたのは、亡くなる前年だった。“遅筆堂”と自称したほど、筆が遅いことで有名だった井上ひさしさんのこと。この音楽劇が生まれていく過程でも、それは同様だった。

「上がってきた分の台本の稽古を進めながら、次の台本を待つ。そんなギリギリの状態だったけれど、演出の栗山(民也)さんが、『次はきっとこうなるよ』と、先を読みながら演出していって、それが魔法のように、実際にそうなっていく。ものすごい信頼関係を感じました。台本が送られてくるたびに、誰もが井上先生の紡ぐ“言葉”に心を揺さぶられて。

音楽を担当する小曽根真さんも、その場でピアノを弾き始めて、そこで生まれてくる曲が、僕らの受けた感動をそのまま音にしたようで、とても自由だったんです。僕自身、最初は不安で焦っていたんですが、素晴らしいものが生まれていく現場に立ち会いながら、それまで感じたことがないほどの衝撃と感動を覚えていました。奇跡が重なるというのは、ああいう時のことをいうんだと思います」

無事に初日の幕が開き、舞台は、熱狂を持って迎えられた。その年の10月に肺がんが見つかり闘病していた井上ひさしさんは、病床で、「『組曲虐殺』が書けたから、もう全然いいんだよ」と家族に語っていたという。『組曲虐殺』は遺作となった。

もっと、芝居の経験を積まなければ。
そんな思いがずっとあった

それにしてもなぜ、“ミュージカル界のプリンス”である井上芳雄さんが、「こまつ座」の舞台に出演し、しかも小林多喜二を演じることになったのだろうか。東京藝大音楽学部声楽科に在学中の20歳の時、ミュージカル『エリザベート』の皇太子ルドルフ役のオーディションに合格したミュージカル界のスーパーエリートで、その後も順調に『モーツァルト!』や『ミス・サイゴン』など、人気のミュージカルに次々と出演が続いた矢先の出来事である。

「あくまでも僕の実感ですが、ミュージカル俳優というのは、基本、どこかラテン系気質というか(笑)。明るくておおらかで、“歌いたい”“踊りたい”という欲望に忠実な人たちが多いんです。感情が歌になるので、湧き上がる思いは、芝居にではなくて歌に込めればいい。ミュージカルの楽曲は素晴らしくて、歌っているときは楽しいし、踊っている時も、お客さんの興奮がステージに伝わってくる。見せ場として、あえて順位をつけるなら、1が歌、2が踊り、お芝居はその次。だから、お芝居だけをやっている人たちとミュージカル俳優とでは、お芝居に賭ける思いや熱量が違うような気がしていたんです。

もし、ミュージカルではなくストレートプレイに自分が出演した時、果たして芝居だけで勝負ができるだろうかと。20代の頃はよく、そんなことを考えていました」

歌うことはもちろん大好きだけれど、お芝居そのものにも興味があった。時間を見つけては、ミュージカルではない舞台にも積極的に足を運んだ。井上ひさしさんの作品を上演する「こまつ座」の作品には特に惹かれた。

2007年には、こまつ座の舞台『ロマンス』に出演した。チェーホフの評伝劇で、大竹しのぶさんや段田安則さん、松たか子さんらと共演。『組曲〜』で、こまつ座の主役の座を射止めたのは、それから2年後のことである。

「小林多喜二という人物についても時代背景についても、ほとんど知識はなかったのですが、この作品を通して、『こんな人がいたんだ!』『日本にもこんな時代があったのか』と知ることができた。命をかけて貧しい人たちを助けようと、守ろうとしていた人がいたことに、僕自身も叱咤され、励まされました。いつの世も、演劇人には、演劇の力で世の中に楔を打ちたいという気持ちがあるということ。こういう作品を通じて、僕も井上先生や多喜二の“思い”を後世に手渡していきたいと思ったのです」