講談社が陸海軍から、圧倒的に「優遇」された「残念な理由」

大衆は神である(71)
魚住 昭 プロフィール
【20 『海軍』と『若桜』の創刊】
海軍のほうでは高戸大尉のほか、情報局課員の古橋(才次郎)海軍中佐の支援が大いにあずかって力がありました。古橋中佐は陸軍の秋山中佐と同じく公平な、立派な人で終始変わらず本社に好意を持ってくれて、高戸―古橋の線で海軍の少年雑誌が本社にいよいよ生まれることになりました。
雑誌名は、はじめ海軍のほうが『若桜』が有望でしたが、先に陸軍が『若桜』ときめちゃったもんですから、それじゃ『海軍』とむきだしに謳おうということになりました。海軍省内には海軍の大看板を雑誌につけることに多少苦情があったようですが、そんなことを言っている時代ではないということで、遮二無二『海軍』で登録をすましてしまいました。
この雑誌は、募兵を中心に海軍思想を青少年に啓蒙普及するのが編集使命でしたが、あまりそれを露骨に表に出すと売れない。したがって青少年が好んで読む普通の少年雑誌にし、そのなかに海軍記事を織り込み、海軍に憧れて軍人になろうと思うような趣旨を盛ったものでした。
一方、陸軍のほうでも海軍に負けないよう少年雑誌『若桜』を出すことになり、『海軍』『若桜』ともに昭和十九年四月二十九日の天長節に創刊号が発売されました。これで本社には少年雑誌が二つも増え、陸海軍両方と直接に固く結びついたわけであります。

こうして講談社は『幼年倶楽部』『コドモヱバナシ』の休刊で失った用紙割当量を回復した。他社が軒並み用紙割当量を減らされていくなかでの2誌同時創刊だったから、同業他社から「なぜ講談社ばかりが優遇されるのか」と、反発の声が出たとしても無理はなかった。

 

陸軍雑誌『征旗』

それから3ヵ月後の昭和19年7月、陸軍雑誌『征旗』が創刊された。発行元は日本報道社だが、同社は事実上、講談社の子会社である。ついでに述べておくと、日本報道社は戦後、光文社と名を変え、カッパブックスを立ちあげてベストセラーを連発するようになる。

竹中の一人語りはつづく。

【21 『征旗』その他も出る】
『征旗』は陸軍省と密接な関係があった『陸軍の友』という雑誌が前身であります。(ところが、出版社の大整理で)『陸軍の友』を廃刊にして、新たに日本報道社という会社をつくり、ここから『征旗』という新雑誌を出すことになりました。
これは、先に述べた、軍が作る出版社に本社の参加を求めた計画の具体化したものです。陸軍報道部の秋山中佐ならびに大熊氏が非常に尽力され、講談社なら立派に間違いなく陸軍の思う通りの雑誌を出してゆけるというので実現したわけです。
なお、私の日誌によりますと、十九年一月二十一日に野間省一氏と奈良静馬氏が陸軍省に行かれております。『現代』が綜合誌として存続することが決まったので挨拶に行かれたのです。
その際、秋山中佐から陸軍の友社を任せるという申し出があり、それでは是非引き受けたいからと(野間氏らが)返事をし、そのとき本社が海軍の委託を受けて『海軍』を出すことについても陸軍省に正式に報告しております。
それから昭和十九年の五月に『新中華画報』(中国や東南アジア諸国に日本の宣伝をするグラビア風の雑誌。発行部数2万~5万部)の編集も講談社に移り、終戦ごろまで出ておりました。

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