講談社が陸海軍から、圧倒的に「優遇」された「残念な理由」

大衆は神である(71)
魚住 昭 プロフィール

神がかりの思想が出版界を覆い、理性的な議論が行われる余地がなくなっていく。その過程で大きな役割を果たしたのが、大日本出版報国団の母体ともなった日本編集者協会(前身は昭和15年に誕生した日本編集者会)だろう。もともとは編集者の地位向上のため作られたもので、初代会長は文藝春秋の編集局長・斎藤龍太郎がつとめ、その後を講談社の橋本求が継いだ。

畑中繁雄の『覚書 昭和出版弾圧小史』によると、昭和16年6月に斎藤が会長になって以来、協会の主導権を握った編集者たちが「古風な尊皇攘夷の志士」気取りで、自由主義的な編集者や出版社の内情探索や中傷密告をし、研究会などの名目で非協力編集者の査問を行った。

 

昭和17年1月末の研究会の席上では、『公論』の編集長・宮本正勝(作家としては幹也)が、真珠湾攻撃直後、三木清(みき・きよし。哲学者。戦時中に治安維持法違反で逮捕され、敗戦直後に獄死)の巻頭論文を載せた『中央公論』(昭和17年1月号)の編集部長である畑中に向かい「これこそ切腹もの」と厳しく迫った。

研究会が終わった後、畑中は『日本評論』編集長の松本正雄と連れだって外に出た。首相官邸横の坂道を会計検査院のほうに向かって歩きながら、松本は「君、あの連中の目を見たかね。あれは狂人の目だよ。まったく気違いとしか思えない。ぼくはもう、あんな連中と一刻だって同席するのは、まっ平だな」と言って、煙草を投げ捨てた。

それからしばらくたって松本は『日本評論』編集長の椅子を去っていった。

横浜事件や戦局の悪化のなかでも

昭和19年(1944)になると、雑誌の統廃合が最終局面を迎える。

講談社の関連では『幼年倶楽部』『コドモヱバナシ』(旧『講談社の絵本』)が19年3月号で休刊させられた。『現代』は『中央公論』『公論』とともに総合誌部門に残ることになったが、従来の総合誌6誌のうち『改造』は時局誌、『日本評論』は経済誌、『文藝春秋』は文芸誌の部門に追いやられた。

その後、中央公論社と改造社は情報局から自発的廃業を指示され、19年7月末、解散に追い込まれた。原因となったのが、戦時下最大の言論弾圧事件とされる横浜事件である。

昭和17年7月、評論家の細川嘉六(ほそかわ・かろく)は法事のため郷里の富山県下新川郡(しもにいかわぐん)泊町(とまりまち)(現・朝日町[あさひまち])に帰省するにあたり、友人の編集者らを同行して一夕の宴を張り、記念の写真を撮影した。

その後まもなく、細川は『改造』(昭和17年8、9月号)に載せた論文「世界史の動向と日本」が反戦的だとの理由で検挙された。翌年5月、たまたま他の事件で泊町の記念写真を手に入れた神奈川県特高警察はこの会合を、何の根拠もなく、共産党再建のための秘密会議と断定した。共産主義の幻に脅えた特高警察が作り上げた空中楼閣である。

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