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30年前、東ドイツで巻き起こった「命がけの民主化デモ」をご存じか

月曜デモを忘れないライプツィヒの人々

1989年の10月9日

10月9日の夜、旧東独のライプツィヒにいた私は、いったいどこに紛れ込んでしまったのかと、一瞬、戸惑った。「光の祭り」? 何だろう。

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市の中心が広範囲にわたって歩行者天国となっていた。巨大なコンクリートのブロックが、主要な通りをことごとく封鎖している。中央駅でさえ、バスも市電も走らず、タクシーもなかった。

その代わり、街中に音楽が流れ、大きな建物にはプロジェクターで様々な模様が投影されていた。大通りの真ん中を、人々が楽しそうに、そぞろ歩いていく。しかし、この「光の祭り」は、ただのお祭りではないのだ。

 

ちょうど30年前のこの日、1989年10月9日は月曜日だった。東西ドイツの統一を考えるとき、この日は大きな意味を持っている。東ドイツの崩壊のきっかけを作った日が、1989年の10月9日だとも言える。

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1989年に始まった東欧の民主化運動の源流をたどっていくと、ソ連のミハイル・ゴルバチョフに行き着く。1985年に共産党書記長に就任した彼は、「ペレストロイカ(改革)」や「グラスノスチ(情報公開)」を始め、これが最終的に社会主義体制の崩壊に繋がっていった。

しかし、種を蒔いたのはソ連でも、実際に社会主義が潰れたのは、ポーランド、ハンガリー、そして東ドイツの方が早かった。

ただ、東ドイツのホーネッカー書記長は、当時、状況をまるで飲み込めていなかったと言われる。ベルリンの壁が落ちたのは1989年の11月だが、その年の初め、彼はまだ「壁は、50年、100年後も立ち続けるだろう」と、間の抜けた演説をしていた。

その東ドイツが激しく揺れ出すのは、5月の地方選挙のあとだ。選挙結果は、「投票率が99.8%で、そのうちの99.7%を独裁政党であったSEDが獲得した」と発表された。政府としては、これまでと同じことを言ったに過ぎなかったが、世の中の空気はすでに変わっていた。にわかに不正追求の声が上がり、このときより民主化運動が静かに広がっていった。

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