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大河ドラマ、新1万円札の顔、渋沢栄一を知る「4つのポイント」

「日本の資本主義の父」の生涯
楠木 誠一郎 プロフィール

(1)ミーハーボンボンの「なんかちがう」という思い

栄一は、天保11年(1840年)、現在の埼玉県深谷市の豪農の家に生まれた。家業は、養蚕と、紺色の染料のもととなる藍玉(あいだま)の生産・販売である。

当時としてはご多分に漏れず、父親の命で学問をさせられ、10代半ばで家業を手伝わされた。商売を面白いと感じるきっかけはこの時代につかんだと思われるが、そのまま一所懸命、家業に精を出したわけではない。

 

栄一が家業一本にしぼらなかったのは、攘夷・倒幕運動にのめり込んだからであった。城を襲って武器を奪い、その勢いで異国人が多く住む横浜に攻め入るという計画を仲間たちと立てていた若き日があった。無論、この計画が実行されることはなく、幕府に目を付けられる若者の一人となったのだった。

このままでは実家に迷惑がかかると、上洛(京都行き)を父親に申し出る栄一だったが、それが実現できたことは、父親に感謝したほうがいいだろう。江戸に遊学した経験があったからこそ一橋家の家臣と面識ができ、その家臣が、「この者は一橋家の家臣である」と偽の手形を用意してくれたおかげで、京都に辿り着けたのだ。

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栄一が「攘夷、攘夷」と熱に浮かれた若者が跋扈する京都に行った背景に、ミーハーな気分がなかったとは思えない。事実、栄一は遊興で資金を使い果たしている。しかし、「攘夷」という言葉の勢いにかぶれきった若者たちを目の当たりにした栄一が、「なんかちがう」と感じたのもたしかだった。

ここで第一の転身があった。栄一は、上洛の際に世話になった一橋家の家臣の進めに従い、一橋家の家臣となったのだ。一橋家の当主は水戸家から養子に入った慶喜、後の十五代将軍である。言ってみれば、「攘夷、攘夷」と叫んでいた若者が、まさに討つべき相手の組織に就職したわけだ。このあたり、己の思想にとらわれず、目の前の現実に柔軟に対応する栄一の即応性を感じてしまう。