世界でも稀に見る大きな規模で豊かなブナの原生林を擁している白神山地。それは気の遠くなるような年月をかけて澄んだ水を育む、天然のダムでもあった。さあ、深い緑と透明な水を求めて、散策へ。

草木、花、動物……
豊かな森がはぐくむ命

縄文時代から今日まで連綿と続いてきた循環

岳岱自然観察教育林のなかは歩道が整備されている箇所も多く、歩きやすい。

この地球上で、手つかずの自然が広範囲に残っている場所は残念ながらそう多くはない。たとえば視界の開けた開放的な大草原で深呼吸するとき、あるいは登山の最中に木々の隙間から遠くの峰々を仰ぎ見るときでさえ、その風景には本来は不釣り合いなはずの送電鉄塔などの人工物が目に入ってくることも珍しいことではない。私たちが大自然だと思っている場所にも案外、人間のテクノロジーが介入しているものなのだ。

けれども何も秘境の奥地まで行かなくとも、約1万年前そのままの姿を今日までとどめている原生林が国内にある。1993年、日本で初めてユネスコ世界自然遺産に登録された白神山地がそれだ。秋田県北西部と青森県南西部にまたがる13万ヘクタールにおよぶエリアのうち、人の手がほとんど入っていない約1.7万ヘクタールがその対象で、核心地域(コアゾーン)と呼ばれている。

世界遺産には容易に足を踏み入れられないと思っている人は少なくないかもしれないが、入山に届け出が必要なのは、このコアゾーンだけ(秋田県側のコアゾーンは原則入山禁止)。秋田県側の白神山地の玄関口である藤里町からアプローチできる岳岱自然観察教育林などのエリアは、じつはコアゾーンに限りなく近い自然環境だ。しかも重装備は特段必要ない。トレッキング初心者でもスニーカーで気軽に散策できるくらい、白神山地は寛容でフレンドリーなのだ。

きれいな水と、そこに生息する動物たちと

藤琴川にかかる太良橋からの眺め。白神山地からの水が人々の元へ流れる。

大館能代空港からは車で30分弱。東北自動車道の十和田ICからなら、約1時間。そのアクセスのよさも手伝って、シーズン中の週末ともなれば藤里町には全国から釣り人がこぞってやってくる。ここを“聖地”と呼ぶ彼らの目的は、白神山地に水源をもつ藤琴川や粕毛川に魚影を映すアユだ。

川面を眺めていると、ときどきキラキラと輝く瞬間がある。草食の彼らが、ヤスリ状になっている口で岩に生えたコケをこそいで食べる、その水中の動きが反射しているのだ。アユは水のきれいなところに生息する魚として有名だ。つまりこの食み跡がたくさんあればあるほど、その川はきれいだという証拠になる。

アユだけではない。ヤマメ、イワナ、カワガラス、カジカガエル、カワネズミ……。白神山地には、存在していることが清流の指標となる、多様な生物がたくさん棲んでいる。

白神山地の水は、ブナがつくった腐葉土で磨かれるため、超軟水。 

梅雨時期のこの日、全国的に雨模様にもかかわらず、日照時間が少ないはずの秋田に着くと意外にも快晴だった。このところ雨続きでどんよりしていた気持ちを、太陽の光がゆっくりと溶かしてくれる。白神山地世界遺産センターで、センター藤里館の自然アドバイザー・菅沼慶太さん、県認定白神ガイド・佐藤浩二さんと落ち合った。

「今朝、アユ釣りをしてきたのですが、川の水量がいつもに比べてずいぶん少ないようです。ここのところずっと天気が続いているためでしょう」

と、佐藤さんが気になることを口にする。今日のトレッキングはほかでもない、藤琴川や峨瓏峡、岳岱自然観察教育林のなかにある湧水など、白神山地を源とする“水”を案内してもらうのが目的だというのに。でもその心配は無用だったことが、歩き出してすぐにわかった。