14歳のビル・ゲイツ、革命の導火線となる「ある教訓」を学ぶ

「見ろよ、こんなのが始まっているぞ」
ウォルター・アイザックソン プロフィール

手元にアルテアがないため、アレンはハーバードのPDP-10を使ってエミュレートした。その間ゲイツは猛烈な勢いで、黄色いリーガルパッドにBASICのインタープリターのコードを書きつづけていた。

数学マニアのハーバード生、モンテ・ダビドフの力も借りながら、昼夜を問わずハーバードのエイケン研究所にこもり、国防総省の予算で動くPDP-10を用いて歴史を作り上げていった。

 

1975年2月の終わり。8週間の必死なコーディングの末に、プログラミングは見事3.2キロバイトに収まった。アルテアの拡張版が持つ4キロバイトよりも小さく、ユーザー用のメモリーを残すことに成功したのだ。

「私がこれまで書いていきたなかでも、いちばんクールなプログラミングになりましたよ」とゲイツは語った。

ゲイツは最後にもう一度、エラーがないか確認したうえで、エイケン研究室のPDP-10からプログラムの穴あきテープを出力。これをアレンが、MITS本社があるアルバカーキまで持っていった。

ゲイツらが書いたBASICインタープリターの穿孔テープ Photo by Wikipedia
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動作テストがはじまる。BASICインタープリターのコードを読み込むのに10分近くかかった。MITS社員が今回も失敗だろうとタカをくくっていたその瞬間、新たな歴史が生まれたのである。

史上はじめて、ソフトウェアがホームコンピュータ上で動いた。

アレンは見事、BASICインタープリターをアルテア本体に搭載するライセンスを交わすことに成功した。「笑いがこぼれるのを抑えられませんでしたよ」とアレンは率直に語っている。

アレンは持ち帰ったアルテアをゲイツの部屋に設置し、ゲイツとともに近所の店へ祝杯をあげにいった。ゲイツの注文はいつもと同じシャーリーテンプル。マラスキーノチェリーのジュースとジンジャーエールのノンアルコールカクテルだ。

 Catriona Ward Shirley Templeゲイツが愛したシャーリーテンプル Photo by Catriona Ward / Flickr

我が道を進んだゲイツ

ゲイツは大学の授業より、アレンと進めているソフトウェア事業のほうに重きを置くようになった。そして1975年の春に2年生を終えると、アルバカーキに飛んでマイクロソフトを創設。秋から始まる3年の新学期には戻らないことにした。

翌1976年、春と秋の2学期はハーバードに戻ったが、それを最後に中退してしまう。卒業まで残り2学期だった。

ビジネスの世界へ本格的に足を踏み入れたゲイツは、世の中にはいろいろな才能があり、それぞれの得意分野で補い合うことを強く実感する人生を歩む。学生時代よりも強くチームワークを意識したゲイツは、その後さまざまな偉業を達成した。

2007年6月、ハーバードで名誉学位を授与されたゲイツは、そのときの講演を父親に対する呼びかけで始めている。

「30年以上かかってしまいましたが、ようやくこう言えます。父さん、いつか必ず学位をとりに戻りますっていつも言っていたけど、そのとおりになったでしょう?」