東京オリンピック開会式の空に五輪を描いた「元戦闘機乗り」たちの夢

源田サーカスからブルーインパルスへ
神立 尚紀 プロフィール

トップガン、五輪を描く飛行の地上指揮官となる

戦後はいくつかの職を転々としたのち、昭和29(1954)年、航空自衛隊が発足すると即座に志願、旧軍での階級(大尉)に相当する1等空尉で入隊した。

 

「戦後9年間、いつも飛びたい、飛ぶなら戦闘機、と思い続けていましたから。戦争が終わったあとも、いつかまた空を飛べるようになると信じてました。そのために英語を身につけようと、映画館でシナリオを買って、休みの日は一日中洋画を見て、英語を勉強しました」

山田は、まずは浜松の幹部学校で3ヵ月、続いて操縦学校で、レシプロの練習機T-34メンターとT-6での再訓練をうけた。T-6の教官は、朝鮮戦争を経験したアメリカ人が多く、9年間におよぶブランクもさることながら、言葉の問題、教官との意思疎通の壁が大きかったという。そして、福岡県の築城基地で、はじめてジェット練習機T-33に乗った。

「プロペラ機とジェット機、飛ぶ理屈は変わりませんが、最初は恐ろしいほど違うと思いました。というのは、着陸速度が、私がかつて乗っていた紫電改が80ノット(時速約148キロ)弱、T-6は60ノット(同110キロ)弱だったのに対し、T-33は120ノット(同222キロ)、倍違うんです。それが、戦闘機のF-86Fになると140ノット(同260キロ)、F-104は170ノット(同315キロ)台ですからね、スピード感がまったく違います」

東京五輪開会式でブルーインパルスが使用したジェット機と同型のF−86F(photo by gettyimages)
正面から見たF−86F(photo by gettyimages)

昭和30(1955)年暮れから約半年間、アメリカ・テキサス州ラックランド基地に留学、T33とF-86Fで一通りの訓練をうけ、昭和32(1957)年、3等空佐に昇任、戦闘機高等操縦過程(ファイター・ウェポンズ・スクール。いわゆるトップガンである)修了、昭和34(1959)年より北海道千歳基地の第二航空団第三飛行隊長、昭和35(1960)年、2等空佐に昇任。同年9月より、ファイター・ウェポンズ・スクールと、航空自衛隊の編隊アクロバット飛行チーム・ブルーインパルスを統括する、浜松の第一航空団第二飛行隊長をつとめるなど、第一線の戦闘機パイロットの道を歩み続けた。

三四三空戦闘第七〇一飛行隊分隊長・山田良市大尉。左・昭和19年、20歳の頃。右・平成10年、74歳の頃(右写真撮影/神立尚紀)

ブルーインパルスは、航空自衛隊制服組トップとなっていたかつての三四三空司令・源田實航空幕僚長の肝いりで発足したばかりだった。

「飛行隊長のポストは、人生の華。いちばんおもしろく、やりがいのある仕事でした。特に第二飛行隊は、アクロバット飛行チームを育てる(ブルーインパルス)ことと、一人前の戦闘機乗りのなかから選ばれた者の鼻っ柱をへし折って鍛えなおす(ファイター・ウェポンズ・スクール)という、一筋縄ではいかない任務が課せられてますから、その飛行隊長たる者には、つねにトップクラスの実力が求められていました」

そして、指揮幕僚課程を経て、航空幕僚監部教育課飛行教育班長をつとめていた昭和39(1964)年10月10日、東京オリンピック開会式で、上空に五輪を描くブルーインパルスの地上指揮を、国立競技場の展覧席の後ろからとったことは、はじめに述べた通りである。

「この年4月の時点で、オリンピックの開会式で、選手宣誓のあと、ブルーインパルスに五輪を描かせようという話が決まっていたと承知しています。

提案したのは源田實参議院議員(昭和37年、航空自衛隊退官、参議院議員に転身)で、おそらく30年前の自身の経験(源田サーカス)から思いつかれたんでしょう。オリンピック組織委員会と源田議員が話を決めて、そこから、話が空幕におりてきて協議が始まったんです。

はじめのうち、事故のリスクが委員会で問題にされましたが、ぼくが最初に決めたのはエマージェンシー、要するに緊急の場合、飛行機が駄目になったらすぐに東京湾に飛んで行って機体を沈め、パイロットは落下傘で脱出すると、それで了承させたわけです」

源田は、戦中から気心の知れた山田が空幕の担当部署にいるからこそ、安心して開会式でのアクロバット飛行を提案できた面もあったのだろう。これは、源田が山田に、間接的ながらも「お前がやれ」と言ったに等しいことだった。

「苦労したのは、五輪のスモークの色をきれいに出すことでした。スモークは、エンジンの排気口にオイルの噴出ノズルをつけて、排気温度で気化した油がふたたび凝固することで煙のように見えるんですが、これに濁りのない色をつけるのは大変だったようです。浜松の整備小隊長が、業者と試行錯誤しながら、やっと開会式に間に合わせてくれました。

1964年10月10日、東京オリンピック開会式の会場となった国立霞ヶ丘競技場の上空に、見事な五つの輪が描かれた

開会式のタイムスケジュールが大幅に変わることはあり得ないから、ぼくがやることといえば、無線機が一つあるだけの通信室から、タイミングを見て最小限の指示を飛ばすだけです。パイロットのことは全員よく知っていて、技倆を信頼してますから、心配するのは天候ぐらい。それで、本番のときにいちばんきれいな輪が描けた。ぼくもやれやれ、と安心しました。あとで源田さんから褒められた憶えがありますが、飛んだのはパイロットですから、彼らの腕がよかったんです」

源田實は、参議院議員を4期24年にわたって勤めたのち、平成元(1989)年8月15日、かつて三四三空が本拠を置いた松山で、まさに「昭和」に殉ずるかのように亡くなった。満85歳の誕生日を翌日に控えていた。

晩年の源田は、毎朝、仏壇に向かい、数珠を手にし、過去帳を開いて、その日が命日の部下の名を1人ずつ読み上げ、呼びかけては読経するのを日課としていた。さらに、飼っていた犬、猫、鳥の墓まで、庭の隅に設けて毎日手を合わせていたという。広島出身の源田はまた、広島カープの熱心なファンでもあった。

「毀誉褒貶はありますが、眼光炯々、いつも毅然としていた源田さんに魅力を感じていたのは、こんな真摯さと、人間的な奥の深さゆえだろうと思います」

――山田良市の述懐である。

「老兵は消え行くのみ。では、失礼」

「源田サーカス」の一員だった青木與は、中島飛行機のテストパイロットとして終戦を迎え、戦後は機械会社を経営、海軍時代に覚えたゴルフに熱中する。海軍大佐だった高松宮のゴルフ仲間でもあった。

「なんでも楽しむのが私の生き方です。飛行機もゴルフもゲートボールも、なにをやっても楽しかったし、人生で嫌なことはあんまりなかった。戦時中、中島飛行機の小泉工場で、工場長から、『お前は働いてるのか遊んでるのかどっちだ』と言われ、『どっちかわからんほど楽しくやってりゃ、それでいいじゃないか』と答えたこともありました……」

平成9年4月24日、脳梗塞のため死去。享年89。青木の死で、戦前の編隊アクロバット飛行チームのパイロットは一人残らず世を去った。

山田良市は昭和54(1979)年から56(1981)年まで航空幕僚長を勤め、晩年は戦史、戦略の研究に没頭、航空自衛隊の部内向けにいくつもの論文を発表している。平成25(2013)年2月27日、死去。享年89。亡くなる直前、私は、山田から別れの電話を受けた。

「ぼくはもう寿命が近いと思う。だから話せるうちに、いまここで君にお別れを言います。もう会うことはありませんが、元気で、これからもよい仕事をしてください」

そんなことをおっしゃらないで長生きを、という私に、山田は、

「いや、自分でわかりますから。ぼくが死んでも、弔問、香典はいっさい無用。どうか誰にも知らせないでください。もし人が知ることになっても、何年か経って、そういえばあいつ死んだのか、ぐらいに思われるのがちょうどいい。老兵は消えゆくのみ。では、失礼」

電話の切れぎわ、ありがとうございました、と言うのが精いっぱいだった。遺言にしたがって、私は山田の弔問をまだすませていない。

2020年の東京オリンピックでも、関連行事としてブルーインパルスによる展示飛行を行う構想があるという。それに向けて、この8月末から9月はじめにかけ、地上への着色のクレームから1999年以降、使用を中止していたカラースモークの実機試験も実施された。時代は昭和から平成を経て令和となり、ブルーインパルスの使用機も、F-86FからT-2、T-4へと代替わりしている。

令和のオリンピックで、「源田サーカス」の末裔たちはどんな妙技を見せてくれるのだろうか。

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