1964年10月10日、ブルーインパルスが大空に描いた五輪。写真では白く見えるが、実際には青黄黒緑赤の五色だった(photo by gettyimages)

東京オリンピック開会式の空に五輪を描いた「元戦闘機乗り」たちの夢

源田サーカスからブルーインパルスへ

東京オリンピック開会式の空に五色の輪を描く悲願

2020年の東京オリンピックも開催が目前に迫ってきた。今年(2019)は、前回、昭和39(1964)年の東京オリンピックから55周年にあたることから、関連のテレビ番組などでその話題を目にすることも多い。

なかでも、昭和の東京オリンピックを象徴する場面として印象的なのが、開会式のとき、国立競技場上空でみごとな五輪の輪を描いた、航空自衛隊「ブルーインパルス」F-86F戦闘機の妙技である。

 

敗戦国・日本が名実ともにふたたび世界の表舞台に立った平和の祭典。だが、この飛行の裏に、かつて海軍でともに戦った上官と部下、2人の戦闘機乗りの尽力があったことはあまり知られていない。

その1人は、軍令部参謀や第三四三海軍航空隊司令を歴任した海軍大佐で、戦後は第3代の航空幕僚長をつとめた源田實参議院議員。もう1人は、大戦末期、源田司令が率いる第三四三海軍航空隊戦闘第七〇一飛行隊で分隊長(大尉)を務め、オリンピック当時は航空幕僚監部(空幕)教育課飛行教育班長の職にあった山田良市2等空佐(のち、第15代航空幕僚長)である。

昭和39年、東京オリンピック開会式でブルーインパルスが空に五輪を描くことを提案した源田實(左)と、当日の地上指揮官・山田良市(右)。2人は旧海軍の上官と部下だった

オリンピック開会式で、ブルーインパルスの曲技飛行を披露することは、自らも昭和のはじめ、日本初の編隊アクロバット飛行チームの一つである「源田サーカス」のリーダーを務めた源田議員の悲願だった。源田はこれをオリンピック組織委員会に提案、実現させた。そして、実施にあたって、開会式会場でブルーインパルスの地上指揮官を務めたのが山田2佐だったのだ。

「ブルーインパルスは当時、浜松基地の第一航空団第二飛行隊に所属していて、空幕で浜松に関係があるのは、運用課ではなく教育課です。しかもぼくは、その前に浜松でブルーインパルスの飛行隊長をやっていましたから。源田さんも、ブルーインパルスとなると、ぼくが出てくることは承知の上で提案されたんでしょう」

と、山田良市(1923-2013)は回想する。

ここでの「地上指揮官」は、開会式が行われる国立競技場の、天皇陛下の天覧席の斜め後ろ、40メートルほど上に設置された箱型の通信室に1人で入り、天候や会場の進行状況もにらみながら、天覧席からベストの形に見えるよう、無線で飛行機に指示を飛ばす役目である。

「このときは非常にうまくいきました。ぼくは無線で、『いま、順調にいっている。予定通り』と言うぐらいのものでしたが、飛行機が予定より5秒遅れて入ってきたんです。この5秒が、絶妙の間合いだった。天皇陛下が飛行機のほうをチラッと見られたんですね。それで皇后陛下に、『ほらほら、あっちだ』とおっしゃって。それで、きれいにスーッと五色の輪を描いた。

訓練中は、あれほどきれいに五輪を描けたことはなかったんだそうですよ。大気の状態も良かったんですね、しばらくきれいに残っていました」