戦時下の「雑誌王国」を盤石とした、講談社と陸軍の危うい蜜月

大衆は神である【70】
魚住 昭 プロフィール

スズクラ去るとも講談社は盤石

講談社と鈴木庫三との蜜月は昭和17年4月、終わりを告げる。鈴木が輜重(しちょう)学校教官に転出し、同年8月には輜重兵第23連隊長として満洲ハイラルに赴任したからである。

『中央公論』の編集部長だった畑中繁雄の『覚書 昭和出版弾圧小史』(図書新聞刊)によると、鈴木転出の2ヵ月半前の1月21日、鈴木の総合雑誌に対する振る舞いがいよいよ目に余るようになったので、『中央公論』の松下英麿編集局長と畑中、『改造』の大森直道編集長、『日本評論』の松本正雄編集長が銀座の銀茶寮で「鈴木対策」を真剣に相談し合った。

結局、自分たちの力ではもはや手の打ちようがないので、この際、海軍調査課長の高木惣吉大佐に思い切って事情を打ち明けてみようということに一決して、同年3月3日、高木大佐を霞ケ関茶寮(星ケ岡茶寮?)に招いて極秘の会談を持った。

同じ総合誌の『文藝春秋』はそのころすでに編集内容の180度転換を行って、畑中らとは対立する立場にまわっていたので、その会談にはことさら除外したという。

畑中らは最近の情報局など当局の言論政策について種々訴えたが、とくに鈴木中佐のやり方については高木大佐にも大いに意に反するところがあったらしく、大佐はそのとき鈴木をどうするか「いちおうわれわれのほうで考えてみる」と約束したという。

鈴木の転出は、その翌月である。このとき海軍側と出版社側から鈴木中佐を標的とする情報戦が展開されたことは想像にかたくないと、佐藤卓己が『言論統制──情報官・鈴木庫三と教育の国防国家』(中公新書)に書いている。

しかし、鈴木がいなくなっても、いったん築かれた講談社と陸軍の太いパイプはびくともしなかった。いや、それまで以上に両者の一体化が進んだと言ってもいいかもしれない。竹中保一は次のように語っている。

〈この人(鈴木中佐)にどこまでもくっついて、この人の言うことを聞いて、この人と密接な連絡を保っていくことが当時の出版界にとって最も大事なことでありまして、それによって本社と陸軍当局との関係が円滑に運び、その支援によって本社は戦時中の難関を切り抜けてきたことも事実であります。(中略)

[鈴木中佐と講談社の関係は]終始一貫変わらなかったのみならず、何のわだかまりもなく実にその辺は都合よく行きまして、その点、中佐に良くしていただいたということに対しましては、社の方針が非常に良かったんじゃないかと思いました。

社は大きな犠牲も払わずに主力誌はあくまで存続し、わずか二誌というようなことで犠牲を止めたほか、寧ろ最後にはこれはまあ鈴木中佐が直接やられたんじゃないですけれども、雑誌を増やすような結果になりまして、失うよりも増やしたのが多いということになって相変わらず講談社は雑誌王国としての王座をどこまでも崩さなかったのは幸せなことだったと思います〉

竹中は、講談社は戦時中、雑誌を失うよりも増やしたと語っている。失った雑誌とは、すでに述べたように『雄弁』と『冨士』である。しかし、極度の用紙難の時代に雑誌を増やしたとはどういうことなのか。竹中のモノローグはその経緯もつぶさに明らかにしていく。

(註1)野間省一伝編纂室『野間省一伝』(講談社、1996年)より。
(註2)同前