戦時下の「雑誌王国」を盤石とした、講談社と陸軍の危うい蜜月

大衆は神である【70】
魚住 昭 プロフィール

あらゆる面においてプラス

竹中の回想はつづく。長くなるがもう少しおつきあい願いたい。その語り口にこそ、敗戦から十余年経っても当時の感覚が生きていると思われるからである。

【15 協会の内容と活動】
話は前に戻りますが、本社のほうで鈴木中佐の提案を研究して第二案を採用することにしました。会の名称を皇国文化協会として、第一分科会は大衆雑誌、第二分科会は綜合雑誌、第三分科会は婦人雑誌、第四分科会は児童雑誌、第五分科会は画家・挿絵画家の五つに分かれ、会長には淵田(忠良)編集局長があたり、評議員には各編集長、常任幹事には私があたりました。
名称や協会規約を鈴木中佐の了解を得まして、四月九日、上野精養軒で第一分科会を開いたのが最初でした。その後月に二回ぐらいずつ欠かさず開催して昭和十八年十一月を最後として終わっております。その間、一年八ヵ月、回数にして三十九回になります。
会場は上野精養軒、帝国ホテル、東京會舘とその時々で変わり、各分科会の会員は講談社で自由に人選し、講演者は、陸軍、海軍、軍部の協力者や思想的に見ても非難のない人を評議員会で物色し、最初の頃は中佐に報告していましたが、その後は勝手に選定して依頼していました。
 
【16 活発な各分科会】
経費はどのくらいかかったか。いまデータをもっておりませんが、講演が一通り終わってから質疑応答があり、それから簡単な晩餐会をやりました。講演中にたびたび空襲警報が鳴ったり、また会合に来る途中、空襲に会(ママ)ったりして、当時五、六十人が集会するのは容易ではなく、最後の方では非常に困難を来たし、万事が窮屈でした。
しかし、集まってくる作家や寄稿家たちは自分も呼んでもらったということで非常に気負い立ち、生々しい戦況や国策をじかに聞かれるので少々困難を冒しても喜んで出席されたようです。
年老いた吉岡弥生女史(東京女子医大の創始者)がモンペをはき普段着で出席され、じっと話を聞いておられたのが非常に印象的でした。
この会合に出ると、軍部ににらまれないですむ、作家の生命が続いておるというようなことで、死活の問題にかかってくるもんですから、みんな喜んで出席していたのは事実であります。
本社としても、この会合をつづけることによって、より一層軍部との結合が密接になり、軍部にかわって本社が主催していることに大変満足でした。また雑誌出版の上においても非常に効果があがり、この皇国文化協会が一大バックとなって、講談社のあらゆる面におけるプラスになったことと考えております。

しかし、これらのことは五十年史にはとても書けなかったろう。